2021年、キューバは変わる

2021年が明けた。

キューバでも1月1日はもちろん新年の始まりであるのだけれど、「革命勝利の日」という大事な祝日でもある。

1959年1月1日、当時のフルヘンシオ・バチスタ大統領が海外へ逃亡しキューバ革命軍の勝利が決まった日。この日から現在までキューバの革命は続いているという認識があるので、キューバでは西暦とともに革命勝利の年から数えて〇〇年という呼び方がある。つまり今年はAño 63 de la Revolución 革命63年。

新聞の日付も西暦と革命〇〇年が併記されている。ちなみに年が明けて新聞代金も5倍になったのに注目!20セントから1ペソへ

そして2021年1月1日はキューバにとって大きな改革が始まる特別な日、人々はXデーならぬ0(ゼロ)デーと呼ぶ日がついにやってきたわけだ。これまでにも何度か触れたように、キューバに流通する二つの通貨、CUCとCUPが統合されて、今後はCUP(キューバペソ)のみが流通することになる。

CUP紙幣にはキューバの英雄たちの肖像画のアップ、人気のチェ・ゲバラ3ペソ札もお手軽に入手できるようになる?!

そして同時に大規模な経済改革が1月1日から実施される。中でも大きいのが国家公務員の給与改革で月給が5倍になるのに従って、これまでの公共料金や配給品などのCUP価格がほぼ5倍になった。そのほかの品物も社会主義体制のキューバでは多くの価格は国が決めるのだけど、個人経営の店も存在するわけでそういったところでは必要以上の値上げ、いわゆる便乗値上げがすでに横行している。その上がり方が半端ではないので驚く。

これまでもキューバの物価は決して安くはなかった。社会主義で教育と医療が無料で、配給制度があって生活が保障されているとはいっても、本当に生活していく上で必要な物資を手に入れて生活するためには、それなりの出費が必要だ。キューバを訪れた人ならわかると思うけれど、近隣の中南米諸国と比べてもホテル代金、飲食費、タクシー代金など相当高くつく。決して旅行者に対してだけでなく、現地で生活する者にとっても公共料金や生鮮食料品の一部を除く物価は日本のそれと変わらなかったり、それ以上だったりする。

バスの料金も1月1日から上がった。40セント=1.8円だったのが、ぴったり5倍の2CUP=約9円。それでも格安だけど・・・

それなのに今回の値上げ。

最近のニュースや人々の関心はコロナの感染者数の増加よりも、もっぱらこの「値上げ」情報。急に変化がありすぎて色々な噂や間違った情報も飛び交っているけれど、もう始まってしまったからには、必要な時がきたらその都度情報を入手するしかなさそうだ。 今後の混乱が「多少」で済んでくれることを祈るしかないが、それより何より私の頭の中の計算機が早いところCUPに慣れてもらわないと困る。これまで2つの通貨でお札も2種類でややこしかったのは解消されたものの、まだ料金を言われても全くピンとこなくて買い物しても「はて、こんなもんだっけ?」と戸惑っていてはいかんよなー。

キューバで一番盛り上がる、Remediosレメディオスのクリスマス

キューバのクリスマスは、いまいち盛り上がらない。今年はコロナの影響もあって、いつも以上に静かで寂しいクリスマスだった。

だがそんなキューバにもクリスマスに盛り上がる街がある。中部ビジャクララ州北部にあるSan Juan de Los Remediosサン・フアン・デ・ロス・レメディオスだ。レメディオスは1515年創立の歴史ある都市、コロニアルな街並みが残る穏やかで美しい街。ここで12月24日の聖夜の晩に行われるのがParranda de Remediosパランダ・デ・レメディオス、レメディオ祭。2018年にはユネスコ無形文化遺産に指定され、今年で200年を迎えた伝統的なこのお祭りを目的に、クリスマスには世界中から観光客が集まって近郊も含めて宿は満室となり大変な賑わいを見せる。

祭の起源は1820年、街の教区長が12月24日寒い夜に行われるミサへ、宗教に興味を持たずに街をぶらつく若者たちを鳴らし物の楽器などを使って教会に呼び寄せたことに始まるという。時代とともにSan Salvadorサン・サルバドールとEl Carmenエル・カルメンの2地区に分けて、音楽、ダンス、山車、広場の飾り付けなどどちらがより賑やかに聖夜の夜を盛り上げるかを競う祭りとなり、今に伝わる。

広場には両地区渾身の作、夜にはイルミネーションで光り輝く

キューバには各地に夏のカーニバルが行われるが、ハバナのそれなんかとは比べると、山車の飾りや踊り子の衣装は格段に手が込んでいて美しいのに驚く。

衣装が素晴らしい!Photo: Irene Pérez/Cubadebate

これらに加えてレメディオス祭りの名物は、当日打ち上げられる花火だ。夕方の開始時、夜が更けてから、深夜のミサが終わってからと何度か花火タイムがあって両地区が競うように花火を上げまくる。日本の花火のように洗練された美しさはないにしろ、とにかく音と打ち上げる数がすごいらしく映像を見ると空が煌々と明るくなってむせるほどに煙がモクモクと上がるほどだ。

Photo: Ismael Francisco/Cubadebate

12月24日から25日の明け方まで一晩中、眠ることなく続くレメディオのパランダ。この日のために街の人々は1年間かけて準備し、全ての成果を一晩にかけるという。

実は2年前、祭り当日ではなくて前日23日にレメディオスに滞在する機会があった。広場には両地区の最大の作品である大きな飾り付けがほぼ組み上がっていて、夜になると広場近くのメインストリートには夜店が並び、既に祭り気分が高まる中で街歩きを楽しんだ。広場近くには祭り博物館があるのだけれど、これが写真やこれまでに使用された衣装の展示など非常に良くできているので、祭の時期にレメディオスにいけない人はこちらを見学したらいい。館内ガイドのおばちゃんがものすごい熱のこもった解説をしてくれたのがとても印象に残っている。

前夜祭12月23日もそこそこに盛り上がっていた

そんなレメディオスの人が情熱をかけるレメディオのパランダも、今年はコロナの影響で残念ながら中止。ただ200年目の記念の年だったこともあり、写真集が出版され広場では小規模の式典を開催したそうだ。

今年の12月24日の様子。Photo: Irene Pérez/Cubadebate

来年は夜空をたくさんの花火が彩るレメディオスの祭りが開催されて、キューバで一番盛り上がるクリスマスが見られますように!

Día de Educadores:教育者の日

キューバの公式な祝祭日は少ない(年間6日前後)が、毎日のように「今日は何々の日」といった具合に国際的な日含めて記念日が多い。

そして12月22日は「Día de Educadores=教育者の日」

先生たちに感謝しましょう、という日だ。国民の教育はキューバ革命の重要な柱、1959年に革命軍が勝利してすぐに着手した政策のひとつがCampaña de Alfabetización=識字運動。革命前は貧困層の子供たちは学校へ行くことができず、特に地方の農業従事者などの多くは読み書きができなかった。革命後、政府は国民教育のためにまずは識字率の上昇が必要とし、キューバ全土で大々的な運動を展開した。小中学校を増設し全ての子供たちが学校教育を受ける体制を整えたのはもちろん、大人たちのため教師を地方の農村や山間部の集落にまで派遣し、読み書きを集中的に教えた。これによって2年ほどでキューバの識字率は96%にまでアップした。そしてフィデル・カストロがキャンペーンの成功を宣言したのが1961年12月22日。このことから12月22日が「教育者の日」となり、毎年教育従事者の労をねぎらうようになったのだ。

1961年12月22日、識字運動の成功宣言をするフィデル photo by EcuRed

現在この日は学校では色々なアクティビティーがあり、生徒たちは先生に感謝の意を示す。その感謝の意の示し方が少々悩ましい。というのも、いつ頃からの習慣か知らないが小中学校では生徒が、正確にいうと生徒の保護者が、先生にプレゼントを贈ることになっている。子供の担任の先生、授業担当の先生のほか、事務室の先生にまで「ちょっとした贈り物」を準備しなければならない。小学校の場合、女性の先生がほとんどなので実用的なシャンプーや石鹸、香水から、ハンカチやポーチなどの小物といったものを送る。この日が近づくと先生の贈り物用のこうした品物が店に多く並び、街中で売られていたりして一大イベントだ。先生たちもこれを楽しみにしていて、この日は朝からニコニコ嬉しそうに教室の机の上を綺麗にして贈り物が届くのを待っている。こうやって書くといやらしいが、教師の給与は決して高くもなく決して待遇も良くない。そんな先生たちのモチベーションアップのために欠かせない習慣だと、最初の年に説明された。

時々日本語を教える近所の子供からもらったプレゼント、グラシアス!

了解。でもなぜ悩ましかというと、物不足のキューバで贈って嬉しい品物がほとんど存在しないからだ。それにキューバ人的プレゼントのセンスがイマイチ理解できない。だから、ごめんなさい、私にはできませんと先生の日のプレゼント準備は夫に任せることにしている。

通常だとこの日が年末年始休み前の最終日となり、保護者も出席して先生を囲んで軽食をとってチャンチャンと終わるのだけど、今年の12月22日は違った。コロナの影響で7ヶ月の長期休暇のあと2ヶ月遅れで新年度が始まったわけで、さすがに貴重な授業日を減らすわけにもいかず、12月24日まで通常授業で「先生の日」のアクティビティーもなし。もちろんこの日は大事な「教育者の日」ではあるので各地で色々な行事が行われたり、個人的に先生へ「ありがとう」を言ったりはしただろうけれど例年の盛り上がりはなく、先生へのあからさまなプレゼント贈呈も少なくともウチの子供の学校では見られなかった。

先生たちには申し訳ないけれど、コロナ禍で物不足+通貨統合政策で物価の上昇と何かと厳しい今日この頃、先生も保護者たちも残念ではあるけど仕方ないと思っていることだろう。

でも感謝の気持ちは贈りましょ。Gracias, maestra!! 先生、ありがとう。

あれから4年、フィデル・カストロの命日

11月25日、フィデル・カストロが逝ってからちょうど4年。朝からテレビは生前のフィデルや関連行事の映像が多く流れた。これまでにも何度か書いたように、キューバではスペインからの独立やキューバ革命に貢献した英雄たちの誕生日や命日をとても大事にする。偉人がキューバ史に残した功績を称えて、後世に伝えようとする意識が(政治的な意図もあってだろうが)、日本よりずっと高い。フィデルに関しては誕生日や命日でなくても言及されない日はない。ここ数日はその度合いが増して、特に若い世代に語られるような内容の記事や報道が目立つように思う。

グランマ新聞の1面下段に毎日出るフィデルの言葉。過去の言葉だが時事ネタ関連のものが多く、グッときたりホーッと感心したりすることもしばしば

4年前。すでにキューバに暮らしていたのだが、フィデルの訃報は夫の共産党関連機関で働く友人からほぼリアルタイムで入った。すでにベッドの中にいて「ふーん・・・」と返す言葉もなくそのまま寝てしまった覚えがある。翌日から国中が喪に服して、数日間TVの通常番組は放映されず、いつも街中に流れる賑やかな音楽が消えた。2日間に渡って行われた「お別れの式典」では、会場となった革命広場が内外からの参列者のほか多くの一般の人で埋め尽くされた。ハバナでのお別れを終えて火葬されたフィデルの遺灰は、多くの人に付き添われCaravanaキャラバンとなってサンティアゴ・デ・クーバへ向かった。1959年1月キューバ革命軍が勝利を収め、サンティアゴから1週間かけて各地で勝利宣言をしながらハバナへ向かった同じ道を、今度はハバナから全国民に最後の別れを告げながら永眠の地として自ら選んだサンティアゴまで進んだ。フィデルはサンタ・イフィヘニア墓地内、彼が師と仰ぐキューバの英雄ホセ・マルティの霊廟のすぐそばで眠っている。

Santa Ifigeniaサンタ・イフィヘニア墓地フィデルの墓 Photo by EcuRed

4年前。フィデルが亡くなった時にもっと大きく何かが変わるのではないか、と多くの人は思っていたかもしれない。でもキューバは、国としても国民一人一人としても、もうその随分前から準備ができていて、その日がついにやって来ても落ち着いて静かに迎え、受け入れていた。ケーブルテレビなどで映し出されたマイアミの反革命支持者らのお祭り騒ぎとは対照的な街の様子が印象に残っている。そして街に溢れた「Yo soy Fidel 私はフィデル」の文字。フィデルは肉体的に亡くなってしまっても、国民の一人一人の中にその精神は行きている、誰もがフィデルとなり得るのだ、と。

25日の晩、ハバナ大学で行われた式典にて Photo: Abel Padrón Padilla/ Cubadebate

あれから4年。本人の遺言にあった通りにフィデル像も、フィデルを名乗るモニュメントも作られてはいない。国の象徴として掲げられることはなくても、やはりキューバは良くも悪くもフィデルあってのキューバだ。政治的なことは抜きにして、近現代史上、これほどまでにカリスマ性の高い指導者はいなかったし、これから先も出ないだろうと思う。多くを知らずに評価することはしたくないし、どう表現したらいいのか分からないのだけれど、その生き様や残した言葉に惹かれる。

”Serenidad” (2010) Photo: Roberto Chile/ by Granma

これから先、1年後、2年後、10年後とキューバの中でフィデルの存在感はどう変わっていくのだろう?ふと誕生日や命日の扱い方にそれが反映するのでは、と思った。

Habana 501 Aniversario: ハバナ創立501年

11月16日はハバナの創立記念日だった。ハバナの街が創られたのは1519年、去年がちょうど500年の記念の年だったので、何かにつけて500年を冠にしてお祝いしたり記念事業が行われたりして、街中に500の数字が目立った。今でもまだあちこちにその500が残っていたりする。

今年もハバナの誕生日11月16日が近づいて、ハバナ旧市街を歩いていたら500年記念事業で始まったホテルの建築現場や修復中の建物の囲いに付けられた看板が501年バージョンのものに付け替えられているのに気がついた。今年は7月末に偉大なHistoriador de la Habanaハバナ史家であるEusebio Lealエウセビオ・レアル氏が亡くなって、彼の功績へ敬意を表してということだろう、写真と市民の思いを伝えるような言葉が添えられていた

旧市街、ハバナ501年アニバーサリーの看板

このエウセビオ・レアル氏、ハバナ旧市街出身で若くして政府公認の歴史家とでも言ったらいいのだろうかHistoriador de la Habanaハバナの史家となって、ハバナだけでなくキューバ中の歴史を知り尽くし、歴史だけでなくあらゆることにその豊富な知識で言及できる生き字引といえる方だった。職場も旧市街の中に持ち、建物の修復現場に出向いて指示を出し、旧市街を歩いて市民と親しく語り合う姿もよく見られたといい、その人柄もとても素晴らしかったと察する。その語り口や文章にも彼の性格といかにハバナをキューバを愛しているかが伝わってきて、個人的にすごいファンだった。使われる言葉が簡潔で聞き取りやすい話し方、スペイン語が完璧に分からなくてもテレビなどで話すのを見てもじーっと聞き入ってしまうほど。いつか彼の講義や講演を生で聞きたい、と思っていたのに叶わなかった。残念・・・

Eusebio Lealエウセビオ・レアル氏 photo:Cubadebate, by Néstor Martí
昨年ハバナ創立500年に合わせて完全修復されたカピトリオ、この修復にもEusebio氏は多大な貢献をした。

そのエウセビオ・レアル氏が愛して止まなかったハバナの創立記念日、なんだかんだでここ数年この日は旧市街を訪れている。旧市街で行われるイベントで有名なのはアルマス広場のEl Templete テンプレーテの建物の横にあるセイバの木を回る習慣だ。

実はこのセイバの木が重要な意味をもつ。ハバナがつくられた時、スペインからやってきた征服者達が初めてカトリックのミサを行ったのがこのセイバの木の下だった。当時はまだこの辺りに原住民の人たち(コロンブス上陸後、半世紀ほどで原住民は絶滅)が暮らしていて、その部族の酋長Habaguanexハバグアネクスもこのミサに参加した。そしてHabanaハバナの名は、その酋長の名前からが付けられた・・・だからこの場所がハバナ創立と深く関わっているというわけだ。なお、テンプレーテの建物は1828年に建てられたもので、この中には先のセイバの木の下で行われたミサの様子が描かれた絵画(フランス人画家Jean Baptiste Vermay作)が奉納されており、開館時には中に入ってこの絵を見ることができる。

エウセビオ・レアル氏によると17世紀ごろから、ハバナの創立記念日にこのセイバの木を回る習慣が始まり現在まで残っているとのこと。毎年市民は11月16日にセイバの木に触れながら、3回周ってお願い事をして左肩越しに小銭を木に向かって投げる。当日は夜中の0時から24時間解放されて日中は長い行列ができるというのが毎年恒例だ。

いつもは遠巻きに見ることしかできなかったのが、今年はすぐ近くまで行って、皆が実際にセイバの木に触ってグルグル周っている様子を見ることができた。

だが今年はコロナの影響もあって午前中に行列はほとんどなし、テンプレーテの敷地を囲む柵の前にほんの十数人が並んでいただけだった。オビスポ通りの商店には食料や日用品を求める人が密になって長い行列を作っているというのに、なんだか少し寂しいハバナの501歳誕生日。来年502歳はもっとたくさんの人がこの日を想い出してくれるような世の中になっていますように。

もう一人のキューバ革命の英雄 Camilo Cienfuegosカミーロ・シエンフエゴス

ハバナを訪れたら必ず立ち寄るPlaza de la Revolución革命広場。この広場に2つの肖像がある。ひとつはあの有名なチェ・ゲバラの肖像。黒の輪郭線だけでキリッとしたチェの表情を見事に表現していてアート作品としても素晴らしいし、その前で写真を撮れば「キューバへ行ってきました!」記念の1枚になること間違いない。

で、もうひとつの肖像はだれか?

同じようなタッチの肖像だが、ヒゲモジャでちょっと虚ろな目、頭には大きな丸い帽子?で、なんだかパッとしない・・・多くの外国人観光客はここでガイドの説明を聞いて初めて彼がどういう人物か知ることと思う。

Camilo Cienfuegosカミーロ・シエンフエゴス

カミーロは、フィデルやチェらとともにキューバ革命戦争を勝利に導いた中心人物のひとりだ。チェは世界的にもその名の知れた革命の英雄であるが、カミーロは国外ではあまり知られていない。というのも、彼は革命軍が勝利した同じ年に乗っていたセスナ機が墜落するという事故によって行方不明、帰らぬ人となったため、革命後に表立って活躍する機会が少なかったから。

写真を見ればわかるが、カミーロはものすごい男前!広場の肖像はちょっと残念・・・

今、革命広場で隣り合っているチェとは、革命軍のシエラマエストラの戦いの同士として、同じコマンダンテ最高司令官まで上り詰めたゲリラ戦士として、互いに尊敬し合い非常に仲が良かったという。二人の性格は対照的で、気難しく物事を理論的に考えて行動するチェに対して、カミーロはとても陽気でおおらかな性格、ゲリラ戦では常に前衛部隊に属した。そこからきている彼を表すフレーズのひとつが、El Señor de la Vanguardia 前衛のセニョール。最前線をいけいけドンドンで突っ走るタイプだったわけだ。他にもEl Héroe de Yaguajayヤグアハイの英雄。これはカミーロが革命戦争最終段階で、中部ヤグアハイの戦いを最高司令官として率いて勝利したことが、チェの率いたサンタクララの戦いと並んで政府軍打倒に大きく貢献したことに由来する。それからEl Héroe del Sombrero Alónアローン帽のヒーロー。チェは星印のベレー帽を愛用していたが、カミーロはいつも大きな丸い鍔のアローン帽と呼ばれる帽子をかぶっていた。そう、革命広場のカミーロ像の頭にあるのは彼のシンボルでもある帽子を表しているのだ。確かに写真で見る彼はいつもアローン帽を被りクシャクシャの笑顔で笑っている。

ヒゲとアローン帽がトレードマークだったカミーロ。photo by Granma

アルゼンチン人であるチェ、裕福な家庭に育ったカストロ兄弟と比較するとスペインからの移民を両親にもちハバナの決して裕福とは言えない環境で育ったカミーロはより近く感じられたのだろう、El Comandante del Pueblo国民の最高司令官とも言われ、とにかくキューバ国民からの人気はとても高い。

フィデルともとても硬い信頼関係で結ばれていた。カミーロはメキシコで間もなくキューバへ向け出発するというフィデルたちに出会い、一番最後にグランマ号に乗るメンバーに選ばれた。ゲリラ戦に備えた訓練もまともに受けないまま革命軍のメンバーとなり、キューバに乗り込んで戦いを重ねるごとにその才能を発揮しフィデルの信頼を得て最終的には最高司令官にまで昇格し、いつもフィデルの隣にいる存在となった。

チェ、フィデル、カミーロ。photo by Granma

革命広場の肖像の下にある言葉Vas bien, Fidel「フィデル、お前はよくやってるよ。」は、彼らの信頼関係を示す言葉だ。時にフィデルが、カミーロに向かってVoy bien, Camilo?「カミーロ、自分はちゃんとやってるだろうか?」と尋ねた時の返事だ。フィデルほどの人物が自分の行動について確認するほどの相手、それがカミーロだったのだ。このことについてはチェも、「Voy bienというフィデルの言葉は彼の完全なる信頼に値する人物に対して向けられた。他の誰でもない、彼の中に絶対的な信頼を感じていた。」と語っている。

そのカミーロが27歳の若さでこの世を去ったのが、ちょうど61年前の10月28日だ。

今年はコロナの影響でハバナではまだ学校も始まっておらず、学校などでまとまって献花しに行くことはなかった。photo by Granma

この日、キューバ国民は花を持って海に向かう。海がない地方に住む人達は川へ向かう。そして一人一人が花を海に、川に向かって投げてカミーロを想う。セスナ機ごと海に落ちて見つかることのなかった彼の亡骸に花を捧げるのだ。これを毎年欠かさず続けるキューバ人。革命がどうとか、思想がどうとか関係なくいいな、と想う。

我が家のある団地はその名も「カミーロ・シエンフエゴス」。団地内のカミーロの像、命日の夕方、数本の花が置かれていた。

チェ・ゲバラの命日に

10月9日はチェ・ゲバラの命日、1967年に亡くなって53年。

キューバでは英雄たちの誕生日や亡くなった日はとても大事にされるのだが、チェの場合は誕生日の6月14日よりもこの命日の方がチェ関連の報道や記事を目にするような気がする。当たり前だけどチェはアルゼンチン人であるから生まれたのはキューバではないし、生まれた時にはキューバと何ら関係のない環境にあった。一方で亡くなったのは革命後キューバを去った後に、新たな革命を起こそうとして戦っていた最中に捕らえられたボリビアの山の中。終焉の地もやはりキューバではないのだけれど、すでにキューバ革命を率いた一人として世界中に名が知れた人物として最後を遂げたのだから、キューバにしてみれば亡くなった日にフォーカスがいくのが当たり前か。また当時のアメリカ寄りだったボリビア・バリエントス政権に捕らえられて処刑される形だったことも、「チェが帝国主義に屈して殺された」と革命の延長上で早すぎた死に与えられる意味があり過ぎるから、かも。

Photo:Liborio Noval, Granma新聞より

亡くなった時チェはすでにキューバ国籍を与えられてキューバ人となっていたし家族も皆キューバに暮らしていたが、すぐに遺体はキューバへ戻ってくることができなかった。没後30年の1997年にボリビアで発掘され同志たちと共に遺骨がキューバへ送還されサンタクララの霊廟へ葬られたのだが、このことは日本でも報道された。当時チェ・ゲバラがどんな人物かほとんど知らなかったのだが、写真もない数行の新聞記事がなぜだか目に留まりチェの遺体がボリビアで発掘されDNA判定で本人のものであると確定されたこと、が記されていたことを異常によく記憶している。

Photo:Osvaldo Salas, Granma新聞より

チェ・ゲバラについてはイヤというほど書物も研究も情報があってその一部を読んだことがあるし、世界中で彼を慕って愛する人がいる人気者であり英雄であるのは分かっているし、「チェ・ゲバラが好きだから」という理由でキューバを訪れる人がたくさんいることも承知している。でも個人的にチェについてどう思うか、どう評価するかを問われたら返答に困る。集めた情報からできるチェのイメージのどこからどこまでが現実なのか、どの部分が虚像なのかうまく整理ができない。面識もなく、同じ時代を生きた人ではない自分にとってすでに歴史上の人物なんてそんなものだろうけど、なんというかあまりに掴みどころがないというか・・・だから、ましてや

「キューバ人にとってチェ・ゲバラはどんな存在なのか?」

という質問にはとてもじゃないけれど、答えられない。もちろん悪気があるわけじゃないのだけど、非情にもこの手の質問を投げかけてくる人がよくいて困ってしまう。そんな時はお土産のTシャツだけじゃない今のキューバ社会に見られるチェの面影、お金の肖像だったり、小学生の教科書に掲載されたチェのエピソードだったり、中学生の制服のエンブレムに使われている「Che」のサインだったり、チェの命日に行われるサンタクララの行事についてだったり、について話して答えになっていないと分かっていながら濁す。

2017年没後50年の式典前日にサンタクララの革命広場へ行った。小雨の降る中、本番リハーサル中の様子

そんなチェについて実在した生身の人間だったことを最も感じさせるのがボリビアで書かれた日記。ボリビアでのゲリラ戦に苦戦し、仲間との確執や自身の喘息の悪化に苦しみ、そうした状況にあって日記の中で弱音を吐いたり、愚痴を言ったりする「カッコ良くないチェ」がすごく人間らしくて愛おしく感じてしまう。


キューバで出版された『ボリビア・ゲバラ日記』初版 Photo by EcuRed

日本語にももちろん翻訳されているので、是非!

ハバナ遠景を楽しむ、カバーニャ要塞とモロ要塞

ハバナの街は要塞と城壁で防御された都市だったが、今でもそうした防御施設の跡が残っている。旧市街散策中にはアルマス広場のすぐ横にフエルサ要塞、ハバナ湾岸をマレコンに向かって歩いていくと外海に接する付近にプンタ要塞がある。そして旧市街からハバナ湾を挟んで対岸に目をやると、高台にある灯台を備えたモロ要塞、その横に長い石垣が岸壁上部に張り付いたように見えるカバーニャ要塞を望むことができる。

プンタ要塞付近から見るモロ要塞

要塞は「戦略上の重要地点に設けられる、主に防衛を目的とした軍事施設」であるが、これらの要塞も16世紀から18世紀にかけてスペイン植民地時代にハバナの街を守るため築かれたものだ。当時のカリブ海の島々はスペインが南米各地で採掘した金銀などを本国へ輸送する際の中継地点として重要な役割を果たしていたが、キューバもそれらの財宝を狙った海賊、植民地争いをしていたイギリスやフランスといったヨーロッパ各国の攻撃から街を守るために、要塞や城壁を作る必要があった。これらの石造りの強固な施設を見るとハバナの街の置かれた当時の状況だけでなく、スペインの財力や建築技術などを見知ることができる。歴史に興味がなくても、その大きさに驚き絶壁に組まれた巧みな石造りの急勾配に要塞としての役割を実感することができるだろう。だがモロ要塞とカバーニャ要塞をオススメする理由は他にある。

要塞から見えるハバナの街だ。

オー、マイ・ハバナ!

モロ要塞はハバナ湾の入り口の断崖をうまく利用して作られた要塞、ハバナ側から見る要塞内にある灯台を含めたその姿はハバナのシンボリックな景色のひとつとしてお馴染み。要塞内のテラスの部分には大砲が添えられ当時を彷彿させるが、この一番高いところからは視界の左半分にハバナの街、右半分に青い海が広がる。入場せずに、要塞の裏を巨大な堀に沿って行くと、本体から離れて外海に突き出たようにある砲台のあったテラスに出る。ここからの眺めも絶景。

テラス状の張り出しに立つと、その向こうは絶壁。柵も何もないので気をつけて

要塞の最も高低差の大きい張り出し部を横目に、遠くにマレコン沿いの建物の並びが伸びるのが見え、夏場はその横の海に太陽が沈む絶好の夕陽スポットなのだ。反対側に目をやれば真っ直ぐな水平線、天気が良ければどこまでも青い海が輝いて見える。冬場には荒波が要塞の壁と海岸の岩に叩きつける様子が見られるが、これもまた迫力があっていい。

観光客たちもここに集まって陽が落ちるのを待つ

カバーニャ要塞は、カリブ海域で最も規模の大きな要塞。ハバナ湾側に一直線に伸びる石垣の上にあるテラスには大砲が並ぶが、有名な大砲の儀式Cañonazoカニョナッソは毎晩ここで行われ、重要な軍事関連の行事や外国軍艦の入港時などにはここでセレモニーを行い大砲を打ち鳴らす。広いカバーニャ要塞内はチェ・ゲバラの執務室ほか展示施設もあって見所は多いが目玉は、やはりここから見える対岸のハバナ市街遠景。手前の旧市街、カピトリオの光り輝く黄金のドームが一際目立つ。奥には革命広場のホセマルティ記念館の塔、平らな土地に広がるハバナの街の様子を一望できる。

大砲の並ぶテラスからハバナを望む

この要塞側から見るハバナが最高に好きだ。何度行っても大きく手を広げて、抱きしめたくなる。¡Ay, mi Habana! (ああ、私のハバナよ!)って。

Castillo de los Tres Reyes del Morro モロ要塞
入場:10:00-17:00
Fortaleza de San Carlos de La Cabaña カバーニャ要塞
入場:10:00-17:00, 18:00-21:00(大砲の儀式)
旧市街からは目と鼻の先だが、車を使って海底トンネルを通っていくか、ハバナ湾の両岸をつなぐLanchoncitoランチョンシート=小さな渡し船に乗っていかねばならない。クラシックカーでハバナ湾対岸、カサブランカ地区にある見所を回ることも可能。

トリニダ、サン・イシドロ遺跡

ハバナより古い歴史を持つトリニダは、小さな街ながらコロニアルな建物がよく残るとても魅力的な街でユネスコ世界遺産にも指定されている。この街並みとともに郊外のロス・インヘニオス渓谷も18、19世紀のサトウキビ農園跡が残り現在でもサトウキビ栽培が継承され当時の雰囲気をよく残しているとして同じく世界遺産となっており、トリニダから観光列車やタクシーを利用して日帰り観光で訪れることができる。

展望台から見るロス・インヘニオス渓谷

このロス・インヘニオス渓谷にいくつかあるサトウキビ栽培が最盛期だった18〜19世紀当時、小規模な砂糖製糖工場を営んでいた農園跡のひとつが、San Isidroサン・イシドロ遺跡だ。渓谷の中を走る幹線道路から少し外れた山の麓にある遺跡までは、ここ数年で遺跡の整備が進み観光客も増えて多少マシなったとはいえ、まだ舗装されていないガタゴト道をゆっくりと進んで行く。

ロス・インヘニオス渓谷に点在するサトウキビ農園跡。中央の丸で囲んだところがサン・イシドロ

遺跡は現在も調査中、かつて日本で遺跡の調査に携わっていたことがあり訪れるたびに遅々としてだが進んでいる調査の様子が実は気になって仕方ない。ガイドとして説明しつつ、調査の進捗具合を密かにチェックするのが実は楽しみ。とはいえ、ちゃんとした調査報告を確認したこともないので、果たしてどんな成果が挙がっているのかよくわからず説明看板と遺構の状態を見てあれこれ想像するだけだけど・・・

そんな個人的な思い入れもあって、サン・イシドロ遺跡は当時の製糖農園の様子を再現し、キューバにおける奴隷制度や植民地制度とサトウキビ栽培の発展の関係を知るに当たってもとても興味深くオススメだ。

農園主の屋敷跡:農園主は普段はトリニダの街にある屋敷に住み、農園滞在時に過ごした建物。トリニダ市街にあるコロニアル建物と用いられているパーツは同じでも、全体の構造が違うのが面白い。

塔跡:三重塔。有名なマナカイスナガの塔にははるかに及ばないけれど、こちらも鐘釣台兼見張り台としての役割を果たしたもの。修復が済んで登れるようになった。

塔の上から農園領主の屋敷を望む

Trapicheトラピチェ:トラピチェはサトウキビからジュースを取るための搾汁装置。当初は人力や家畜を使ったものだったのが、蒸気機関の発明により後に機械化された。トラピチェを据えた跡のみが残り実際にどのタイプが使われたのかは不明だが、1900年代初頭に使われていたものがお隣の農園マナカイスナガに今でも残っている。

マナカイスナガのトラピチェ、今でもこれを使って絞ったサトウキビジュースを飲ませてくれる

Tren Jamaiquinoトレン・ハマイキーノ:「ジャマイカ列車」と名付けられたこの施設は、サトウキビジュースを大鍋で煮詰めて砂糖を結晶化するためのもの。フランスで発明されジャマイカ経由でキューバへ持ち込まれたことからその名がある。砂糖が鍋の底で焦げないように直接各釜に火を当てるのではなく、一番端の大鍋に沸かした湯からの蒸気を流してゆっくり加熱して結晶化させるよう工夫がなされている。その蒸気の流れる様子が蒸気機関車の煙のようで各釜を連なる客車に見立てて「列車」と呼ばれるようになったとか。当初は覆い屋根もあって熱がこもるとてつもない暑さの中での作業だったはずだが、大事な砂糖を焦がさぬよう火加減の調整を任されたのは、奴隷の中でも農園主に信頼されたものだったという。釜の据えられた丸いくぼみの形、基部のアーチ構造など曲線に組んだレンガ作りも美しく、その構造も非常によく分かって保存状態もいい、この遺跡の目玉となる遺構だ。ちなみに燃料にはサトウキビを絞りカスが使われていたそう。

「ジャマイカ列車」見事としか言いようのない遺構の残り具合

蒸留施設跡:建物の壁のみが残るが、ここには蒸留酒を作る施設があった。砂糖の生成過程でできる糖蜜を発酵、蒸留させてAguardienteアグアルディエンテという蒸留酒を作った。これを熟成させるとラム酒になる。酒は奴隷たちが過酷な労働に耐えるために感覚を麻痺させる麻薬の役割も果たしていたという。

農園内でお酒まで作っていたとは実に効率的

浄化作業小屋跡:結晶化した砂糖は素焼きの器に入れて一定期間置くことで分離、浄化されて砂糖として精製される。その容器を並べて保管する大型の小屋があった場所。現在は建物の基部礎石が残っているのみ。周辺に土器のかけらが多く散らばっているのがそれっぽい。

奴隷小屋跡:奴隷が過ごした小屋の跡。レンガで作った農園主の屋敷やその他の施設とは違い石造の粗末な建物。壁が立ち上がって残っている部分もあり、壁で仕切られて方形の小部屋が並んでいたことがよく分かる。4m四方ほどのスペースに8〜10名ほどの奴隷が一緒に暮らしていたという。奴隷たちは家族をなし子供を設けることは許されていた。なぜならその子供も奴隷となり、新たに奴隷を購入することなく労働力を増やすことができたから。

キューバの砂糖産業の発展を支えた奴隷たちは、家畜同然の扱いを受けていた。

そのほかにも井戸、ダムとそこから引かれる水路、水路を渡る橋の跡、粘土を練る装置跡、地下貯水池といった遺構が残っていて、当時の典型的なサトウキビ農園と製糖施設の様子を再現するに十分な資料だ。

行く度に進化するサン・イシドロ遺跡、今後も少しずつ調査が進んでその成果を活かして遺跡全体が整備されるのが楽しみだし、より多くの人が訪れる観光資源としても大いに期待できるのではないかと思う。

だから遺跡入口の道、舗装してね!

キューバでラム酒を

旅先でその土地のお酒を試してみるのは、アルコール好きでなくても楽しい体験のひとつだ。キューバについてちょっと調べれば、「現地で絶対飲みたいカクテル、モヒート」とか「ヘミングウェイの通ったフロリディータでダイキリを」なんていう記事を目にする。モヒートもダイキリもキューバ発祥といわれるキューバを代表するカクテルで、キューバを旅行すれば一度は口にする機会があるだろう。どちらも清涼感あふれる飲み物でカッと太陽の照る暑いキューバで飲むと、これがまた格段に美味い!

レストランやバーには必ずあるモヒート、色々な場所のものを飲み比べるのも楽しい

このモヒートもダイキリもラム酒をベースにしたカクテル、ちょっとお酒好きならキューバといえばラムとすぐに出てくるだろうけれど、そうでなければモヒートやダイキリは知っていてもそのベースがラム酒であることは知らない人もいるかもしれない。

キューバでお酒といえば、ラムなのだ。

Ron:スペイン語では「ロン」。もちろんキューバ人たちはRon大好き、お酒を飲む=Ronを飲むで、パーティーはもちろんキューバ人たちとのちょっと集まり、ドミノをしながらのお供にとRonは欠かせない。ホワイトラム、熟成した琥珀色のラム、ブランドの高級ラム、配給所で量り売りされているラム、どんなラムでも多くはストレートで飲む。家庭や身内のパーティーではカクテルなんて面倒なことはしないので、せいぜいコーラなどの炭酸飲料で割るかレモン果汁を加えて飲むのが普段の飲み方。アルコール度数は40度前後と高いけれどほのかに甘みがあるので意外に飲みやすく、味わいがある。飲みすぎなければ、ゆっくり知らず知らずのうちに気持ちよーく酔えるのが個人的には好きだ。

レトロな雰囲気のバーでラムを

このラム酒の原料となるのが、砂糖。

キューバの砂糖の歴史はコロンブスが2回目の航海の際にキューバに持ち込んだサトウキビの栽培に始まる。当初は果たしてこのカリブの島でアジア原産とされるサトウキビが育つのかという懸念もあったらしいが、キューバの気候と土壌が適していたことから各地で栽培され砂糖の生産がキューバ中に広がった。そして18世紀から19世紀にかけて砂糖ヨーロッパ向けの需要の高まりとともに世界的に有名な砂糖生産地となった。現在でもキューバの主要産業、輸出品のひとつだ。

サトウキビ photo by EcuRed

ラム酒はその砂糖の副産物、砂糖の生成過程でできる「糖蜜」を発酵、蒸留、熟成させて作られる。18世紀後半には砂糖農園で働く黒人奴隷たちが作って飲んでいることが知られるようになり、19世紀になると蒸留装置が持ち込まれ「商品」としてのラム酒作りが本格的に開始された。そうして現在ではキューバのお酒といえば、ラムとなったのだ。

キューバのラムといえば、ハバナクラブ。写真は宣伝広告から

ところでサトウキビ=砂糖とラム酒の関係は、日本の米と日本酒の関係に少し似ている。サトウキビはキューバの全土で栽培され全国各地に製糖工場があり、工場の近くには蒸留所があってそれぞれ独自の方法、香り付けをした異なる風味のラム酒、銘柄が存在する。日本の酒蔵のように無数にはないけれど、キューバ各地に蒸留所があって「地ラム酒」が作られているわけだ。

お酒好きの方、通の方、キューバのラム酒を是非カクテルだけでなくストレートで飲んで、 ハバナクラブ以外の銘柄もお試しを!