あれから4年、フィデル・カストロの命日

11月25日、フィデル・カストロが逝ってからちょうど4年。朝からテレビは生前のフィデルや関連行事の映像が多く流れた。これまでにも何度か書いたように、キューバではスペインからの独立やキューバ革命に貢献した英雄たちの誕生日や命日をとても大事にする。偉人がキューバ史に残した功績を称えて、後世に伝えようとする意識が(政治的な意図もあってだろうが)、日本よりずっと高い。フィデルに関しては誕生日や命日でなくても言及されない日はない。ここ数日はその度合いが増して、特に若い世代に語られるような内容の記事や報道が目立つように思う。

グランマ新聞の1面下段に毎日出るフィデルの言葉。過去の言葉だが時事ネタ関連のものが多く、グッときたりホーッと感心したりすることもしばしば

4年前。すでにキューバに暮らしていたのだが、フィデルの訃報は夫の共産党関連機関で働く友人からほぼリアルタイムで入った。すでにベッドの中にいて「ふーん・・・」と返す言葉もなくそのまま寝てしまった覚えがある。翌日から国中が喪に服して、数日間TVの通常番組は放映されず、いつも街中に流れる賑やかな音楽が消えた。2日間に渡って行われた「お別れの式典」では、会場となった革命広場が内外からの参列者のほか多くの一般の人で埋め尽くされた。ハバナでのお別れを終えて火葬されたフィデルの遺灰は、多くの人に付き添われCaravanaキャラバンとなってサンティアゴ・デ・クーバへ向かった。1959年1月キューバ革命軍が勝利を収め、サンティアゴから1週間かけて各地で勝利宣言をしながらハバナへ向かった同じ道を、今度はハバナから全国民に最後の別れを告げながら永眠の地として自ら選んだサンティアゴまで進んだ。フィデルはサンタ・イフィヘニア墓地内、彼が師と仰ぐキューバの英雄ホセ・マルティの霊廟のすぐそばで眠っている。

Santa Ifigeniaサンタ・イフィヘニア墓地フィデルの墓 Photo by EcuRed

4年前。フィデルが亡くなった時にもっと大きく何かが変わるのではないか、と多くの人は思っていたかもしれない。でもキューバは、国としても国民一人一人としても、もうその随分前から準備ができていて、その日がついにやって来ても落ち着いて静かに迎え、受け入れていた。ケーブルテレビなどで映し出されたマイアミの反革命支持者らのお祭り騒ぎとは対照的な街の様子が印象に残っている。そして街に溢れた「Yo soy Fidel 私はフィデル」の文字。フィデルは肉体的に亡くなってしまっても、国民の一人一人の中にその精神は行きている、誰もがフィデルとなり得るのだ、と。

25日の晩、ハバナ大学で行われた式典にて Photo: Abel Padrón Padilla/ Cubadebate

あれから4年。本人の遺言にあった通りにフィデル像も、フィデルを名乗るモニュメントも作られてはいない。国の象徴として掲げられることはなくても、やはりキューバは良くも悪くもフィデルあってのキューバだ。政治的なことは抜きにして、近現代史上、これほどまでにカリスマ性の高い指導者はいなかったし、これから先も出ないだろうと思う。多くを知らずに評価することはしたくないし、どう表現したらいいのか分からないのだけれど、その生き様や残した言葉に惹かれる。

”Serenidad” (2010) Photo: Roberto Chile/ by Granma

これから先、1年後、2年後、10年後とキューバの中でフィデルの存在感はどう変わっていくのだろう?ふと誕生日や命日の扱い方にそれが反映するのでは、と思った。

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