Malecón habaneroマレコン・アバネーロ:ハバナのマレコン

ハバナで一番ハバナにいることを実感させる場所はマレコンだ。

ハバナをしばらく離れた後にマレコンへ行って変わらぬ景色を見ると、「あーハバナへ帰ってきた!」と思わずその場で深呼吸して空気を確かめたくなる。

ハバナのマレコンは沿岸部の浸水被害を防ぐための防波堤として1901年に旧市街ハバナ湾口にあるプンタ要塞から始まり、その後3〜4期に分けて建設され1958年に西端のアルメンダーレス河口までの全長約8kmが完成した。ほぼ同時期にハバナ湾の海底トンネルとマレコン沿の道路も整備されて、ハバナの街の東西を結ぶ幹線道路としての役割も果たすようになる。

プンタ要塞近く、1901年の建設を示すプレート。アメリカ政権下にあった時代を示すUSAの文字。

もちろん今でもマレコンは本来の海水の侵入を防ぐ目的を果たしてはいるが、ハリケーンや冬場の低気圧通過時に起こる高波は、軽々とその堤を乗り越えて海沿いの道へバッシャバッシャと入ってくる。道路までザッパーンと大量の水が流れ込んでくるレベルだと即通行止めとなってしまうのだけど、多少歩道を濡らすぐらいならばそのまま通行可能であるので、波飛沫を浴びながらマレコン沿いを散歩したりクラシックカーに乗ってドライブしたりできてしまう。そのダイナミックな光景を見ると地元民でも興奮する。

マレコン沿の建物は海風に吹かれて浸食が激しい

ハバナのマレコンは「世界で最も長いベンチ」とも言われるように、人々がその海際の堤に腰掛けて集う場所でもある。日中は暑いので観光客が写真を撮りながら散策するのを見る程度だが、夕方になると何処からともなく人が現れて、夜が更けるまで大勢の人がマレコンで過ごす。夏場や週末には、より多くの人々が集まる。夕涼みがてら「マレコンベンチ」に座って語らうカップルや仲間たち、片手にビールやラム酒のボトルは欠かせない。おしゃべりに夢中な大人たちの側で子供達は駆け回り、手押し車で売り歩く駄菓子やかき氷をねだって大声をあげる。楽器を持った流しのバンドは観光客からのチップが目的かもしれないけれど、ノリの良いラテンのリズムが愉しい気分が盛り上がり、その場で踊り始める人もいる。マレコンはノーチャージの屋外バーとなり、ライブも聞ける絶好の社交の場と化す。これほどキューバにいることを感じさせる場所はやっぱりない。

マレコンに集まる人々
マレコンを会場に行われるイベントもある、写真は2019年のハバナビエナール

かつては泳ぐこともできたので、マレコンから飛び込む少年の写真をどこかで見たことがあるかもしれない。が、現在遊泳は禁止。

でも釣りはOK。

海のコンディションが良ければ、マレコンの堤防上に立って釣り糸を下げる人々が朝から夜まで見られる。当然だけど釣れるポイントというのがあるらしく、何箇所かに人が集中する。釣った魚はもちろん「食用」なので、彼らの多くは大真面目に獲物を狙っている。キューバでは絶対に手に入らない立派な釣り具を持っている人もいれば、いろんなパーツをつなぎ合わせたキューバお得意のinventoインベント=デッチ上げの竿を手に大物を釣り上げる人、竿はなく釣り糸をそのまま海に放り込んでひたすら待つ人・・・うまくいけば鯛やカツオ、時にはマグロだって釣れるらしい。

キューバで釣りといえばヘミングウェイが有名だけれど、ハバナのマレコンで釣りをすれば「老人と海」の舞台となったハバナ沖の海を見て老人が見たのと同じ夕日が見られる。ハバナの旅の思い出にマレコンで釣りもいいかもしれない。

プンタ要塞付近からの夕日

ともかくハバナのマレコン、ハバナ滞在の折には時間を見つけて足を運んでもらいたい。24時間可、但し天候やマラソンなどの理由による通行止時を除く。

この子の十五のお祝いに・・・Quinceキンセ15歳の誕生日

キューバでは誰もが誕生日をとても大事にしていることは少し前に書いた。誕生日といえばちょっとしたパーティーをするのが習慣で、呼ぶ側も呼ばれる側にとっても友達や家族が集まって飲み食いするというキューバ人が大好きなひと時を過ごす格好の口実でもある。だからいくつになっても誕生日は大切なんだろうけれど、子供が成長して大人になる年齢、成人になる年は本人にとっても両親にとっても特別な日。中南米の多くの国では15歳をその区切りの年としてお祝いするところが多い。キューバでも法律上の成人は18歳とされているが、15歳の誕生日を特別に祝う習慣がある。

15=Quinceキンセ

数字の読み方そのままで、年齢だけでなくお祝いイベントそのものも指す。このキンセ、なぜか女の子だけが盛大にお祝いされる。諸説あるようだが、起源は古代メキシコアステカやマヤでは女性は15歳になると大人として結婚(=子供を授かる)することができるとして、数多くある人生の区切りを祝う儀式のひとつを行なったことに由来するというもので、後にカトリックの習慣と結びついて広がったのだとか。パーティーで踊る特別なダンスがあったり、キャンドルの儀式をやったりと国や地域によって祝い方は違うようだけれど、今でも女の子の15歳の誕生日は一生に一度の特別なイベントであることは間違いない。

キューバではかつては招待された若い14組のカップルがワルツ踊ったりなんだりする伝統的な習慣もあったそうだけれど、最近ではそこまですることはほとんどない。一般的なのはまず、いつもより多くの人を招いての誕生日パーティー。自宅ではなく海辺のプール付きのカサパルティクラルやレストランを貸し切って行うこともある。巨大なケーキやお持ち帰り用の甘いお菓子とサラダと揚げ物、飲み物、豚肉料理などの伝統的なキューバ料理・・・このあたりはいつものパーティーメニューと変わらない。主役のQuinceañeraキンセアニェーラ=15歳を迎える女の子は、バルーンで飾られた会場の中へお姫様のように着飾って登場するはずだ。

クラシックカーに乗って photo by Cubadebate

それからこのパーティーに先立ってアルバムを作るのも忘れてはならない。この撮影というのが、ハバナであれば旧市街などのフォトジェニックな場所、緑の多い公園、海沿いの通り、あるいはクラシックカーに乗ってあちこち移動しながら1日がかりでプロのカメラマンが同伴して行われる。途中で衣装をドレスからカジュアルまで取っ替え引っ替えして、化粧直しパシャパシャとシャッターを切られてモデル気分を味わいながらの撮影。本人にとってはこれが一番楽しいキンセの想い出になるんだろうなあと思う。

ハバナの町歩きの途中でも、キンセの撮影によく遭遇する。

それにしても15歳とはいえキューバの女の子は確かにもうしっかり一人前の女性だ。色っぽい眼差しでポーズをとる姿も、出来上がった写真に写る姿もとても中学3年生の女の子とは思えなくて、その早熟さにびっくりする。

こうしたキンセのお祝い、当然のことながらしっかり商売にもなっていて決してお安いものではない。キューバの物不足もあってパーティーの準備をするのも大変だ。それでも親はやっぱり可愛い我が娘のために何年も前からコツコツお金をためてその年に備える、ということをやっている。普通貯金なんて考えもしないし、する余裕がないキューバ人ですら!!

親泣かせのキンセ、娘を持たなかった母は内心ホッとしている・・・

キューバ人と誕生日

8月13日はフィデル・カストロの誕生日だ。生きていれば今年94歳。

若かりし日のフィデルの写真が新聞記事に。Photo by Granma

国を挙げての大きな行事があるわけではないけれど、この日が近付くとフィデル関連の報道が目立つ。テレビではフィデルの眠るサンティアゴ・デ・クーバのお墓での行事の様子や花を手にお参りをする人々の姿が映し出され、生前の功績やエピソードについて様々な映像が流れる。今年はコロナの影響でハバナで市民が参加するようなイベントはなかったものの地方ではお祝いの集会や音楽ライブなどが開催されたようだ。本当ならオリンピックイヤーだったはずだからだろうか、スポーツ選手達がフィデルとの想い出を語るインタビューがやたら多いような気がする。キューバ革命を率いた第一人者は今でもComandante en jefe最高司令官フィデル・カストロとして国民の心の中に生きていて、ともに誕生日を祝う。

マスクをした人たちがフィデルへ花を捧げるために並ぶ、サンティアゴ・デ・クーバのサンタ・イフィヘニア墓地 photo by Granma

キューバで誕生日はとても大事だ。生きている人だけでなくて、すでに亡くなっている人の誕生日もその人を偲んで静かにお祝いする。歴史上の人物やなんだかの分野で活躍した人ならなおさらで、その筆頭はキューバ国民の英雄ホセ・マルティの誕生日だろう。キューバのスペインからの独立を導いた政治家であり、フィデルも師と仰ぐ人物だ。そのマルティの誕生日は1月28日で毎年この日は前夜祭から始まって、当日はキューバのありとあらゆる所にあるマルティ像へ花が捧げられ様々な行事が催される。他にもキューバ独立戦争や革命の中心人物、映画俳優、作家や詩人、スポーツ選手まで誕生日にはテレビニュースになったり、新聞記事が出たりする。すでに他界している人に関しては亡くなった日も大事なので、それもチラッと話題になる。だからほぼ毎日のように誰かの誕生日か命日であることを耳にすることになる。

一般の人たちにとっても、もちろん誕生日は特別だ。

子供の誕生日は親たちが気合を入れて準備をする。なかでも1歳の誕生日はUn añitoウン・アニート=1歳ちゃんのために大きなFiestaフィエスタをして祝う。

ピニャータ炸裂!この下で子供達がお菓子を拾うためにしゃがんで待っている。

これはキューバだけではなくて中南米どこでもそうらしいけれど、昔は生まれて間もなく亡くなってしまう子供も多かったので、1歳まで無事に育ってくれたことを親たちが喜んで大々的にお祝いをしたことに由来するらしい。子供の誕生日会は子供たちのためのもの、ということでたくさんの子供達がやってきて(子供なら招待されていない友達の友達の友達でも参加可)賑やかに行われる。大きなケーキはもちろん、誕生日には欠かせないピニャータ(動物の形などした張りぼてを子供達が叩き割って、中から落ちてくるお菓子やオモチャを拾う子供が大好きな誕生日イベント)、ピエロが登場したり、ビンゴゲームがあったり・・・とにかくモノのないキューバでこれをやろうと思うと準備がものすごく大変!

息子6歳の誕生日、頑張った!!

ということをキューバに来て翌年の息子の誕生日会で実感したので、我が家では息子の誕生日会はケーキだけで身内で済ませ誕生日旅行で逃げることにした。

大人たちも誕生日には家族や友人たちとFiestaフィエスタをする。皆で集まって食べて飲んで、音楽ガンガンかけて踊ってが大好きなキューバ人たち、誕生日という特別な日をパーティーの口実にしないわけがない。定番は自宅に皆を招待するのだが、ちょっと景気のいい人はプール付きの1軒家を借りてやったりもする。飲み物はビールとラム酒で決まり、お決まりの軽食メニューはマヨネーズベースのペーストを挟んだパン、マカロニサラダ、コロッケなどの揚げ物、一口大の激甘キューバお菓子、そしてメレンゲたっぷりのケーキ。なぜーかこれらを全部一緒に折り畳み式のランチボックスに詰め込んでお持ち帰りする。甘いものもしょっぱいものもごっちゃ混ぜにされるので、家に帰って開けた時には大変なことになっているのだけど、これがないとキューバの誕生日会ではないらしい。

ところでこの誕生日会、キューバではお祝いしてもらうものではなく自分で企画して皆を招待するものだ。呼んで楽し、呼ばれて楽し、で誰もが年に1度はある誕生日だからお互い様。何となく誕生日は誰かに祝ってもらうもの、という気がするのでちょっと違和感があるのだけれど、これもキューバ式。

ヒロシマ、ナガサキ、そしてキューバ

「今年の夏は、いつも違う特別な夏」

昭和の歌謡曲ならちょっとドキドキしてしまいそうなフレーズだけれど、現実はコロナの影響で海へ山へと楽しいバケーションも、久しぶりに家族で集う里帰りも自粛のムチャクチャネガティブな「特別な夏」だ。これはキューバでも同じ。あまりに長い、そしてここにきていつまで続くか分からない休みを楽しんでいるのは子供達ぐらい。

夏、8月といえば個人的にはヒロシマとナガサキ、原爆投下を思い出す。父が広島で被爆している我が家では夏休みの真っ只中、8月6日の朝はテレビの平和記念公園での式典中継を見ながら8時15分に黙祷するのが恒例だった。その後も年に一度のこの日のどこかで、ヒロシマを思う。キューバに来てからもそうだ。

今年は「特別な夏」で、今ちょうどキューバはコロナ感染の再拡大が注目されていて、テレビのニュースもそればかり。毎年この時期にはヒロシマ・ナガサキの原爆投下に関するなんだかの報道がされるのだけれど、今年はどうなんだろうと思っていた。時差を考えると日本時間の8月6日午前8時15分はキューバ時間の5日午後7時15分、ちょうど夕食の準備やらで何やらでバタバタとしている時間帯でもあり、その瞬間はいつの間にか過ぎていた。8時前にハッと思って日本の方を向いて手を合わせてから、テレビを見るとニュース前の報道番組の最後に原爆投下時のキノコ雲や焼け野原になった街の様子と一緒にフィデル・カストロが広島を訪れ献花している場面が映し出され、75年前のこの日広島に原爆が投下されたことを紹介していた。そして9日長崎の原爆記念日には、夜のニュースの中で長崎原爆投下と同時に、広島の千羽鶴のお話の主人公であるササキサダコさんのエピソードが現在の平和記念公園の映像などを交えて紹介された。

焼け野原になった街の様子を映し出す画面
サダコさんのお話はキューバで何度か放映されている。

フィデルは2003年3月に日本を訪問した際に広島を訪れている。この頃まだキューバを知らなかったけれど、3月とはいえ寒い日に黒っぽいコートを着て大勢の報道陣に囲まれながら平和公園で献花するフィデルの姿はよく覚えている。今回テレビで見たのはまさにその時の映像だった。

この時フィデルはQue jamás vuelva a ocurrir semejante barbarie このような野蛮な出来事が2度と起こりませんように、とメッセージを添えて記帳した。photo by Cubadebate

キューバへ来てから、1959年革命勝利のその年にチェ・ゲバラも日本滞在中に広島へ足を運び、同じように献花している写真が残っていることを知った。そしてチェがフィデルに広島訪問について、「人として見ておかなくてはならない」と報告したということも。同じようなことを妻のアレイダにもわざわざ日本から葉書を出して伝え、同じ名前の娘アレイダも日本へ来た際にやはり広島を訪れている。

チェが広島を訪れた時の写真、ハバナのカバーニャ要塞チェの執務室資料館にも展示されている。photo by Cubadebate

こうしてキューバの革命を起こした重要人物たちが広島を知り、ヒロシマの重要性や歴史的事実が持つ意義をキューバの国民に伝えようとしたことは言うまでもない。キューバでは多くの人がヒロシマ・ナガサキを知っている。原爆投下された日の前後には関連するいくつかの報道がされ、学校でも原爆に関連する教育がされるという。少し偏屈な見方をすれば、アメリカという同じ敵を持ち、その敵に原爆投下という人類歴史上最も酷いといえるほどの仕打ちをされ叩きのめされながらも、戦後急速に発展し世界最高レベルの経済力を持つ国のひとつを作り上げた日本という国を見習うべく、キューバもアメリカの制裁にめげずやっていこう、という政治的プロパガンダとも取られるかもしれない。でも素直に見れば、現在キューバが掲げる平和的人道国家となるべく、こうした過去の悲惨な歴史を繰り返さない世界の構築に努めるべきと後世に伝えるためのヒロシマ・ナガサキの教えと考えていいだろう。

ヒロシマ、ナガサキ、そしてキューバ。 自分の中にあるヒロシマへの思いがなんだかの形で繋がってキューバへ流れ着いたんじゃないか、ふとそう思うことがある。

キューバの信仰

キューバの宗教について一般的にはスペインの植民地であったことからカトリック信者が多いとされるが、一方で同じくスペイン領であった他の中南米諸国の中でも最もカトリックが浸透しなかった国、とも言われている。これはキューバ革命が宗教を否定したためと思われがちだが、実際には革命政府は宗教の否定もカトリック信者の排除もしてもいないので、革命以前からの傾向や他の宗教の影響もあったようだ。

他の中南米諸国では原住民のインディヘナの人達までも敬虔なカトリック信者だったりするし、日常のあらゆる生活習慣にまでカトリックの影響が色濃くみられる。とある宗教が浸透する国や地域ほど、旅行をしていても「宗教は何?」と聞かれることが多いように思う。中南米でも同じ質問をよくされるけれど、その度に

「Atea(アテア)無神論者」

というと、多くの人はギョッと引いて怪訝な顔をし、中にはその場で神について説き始める人もいる。

ところがキューバでは同じ答えをしても「そっか」で終わる、もしかしたら「私もだ。」と同意される。他にもカトリックがあまり浸透していないことを示す例を挙げると、クリスマスが盛り上がらない。1998年革命後初めてローマ法王がキューバを訪問して以降12月25日が祝日になって、最近でこそツリーを飾ったり、街中のレストランの店員がサンタの格好をしていたりすることはあっても、他のカトリックの国に比べると断然地味なクリスマスだ。

ハバナの旧市街にあるカトリックの大聖堂、カテドラル

カトリックの他にキューバ人が信仰する他の宗教として挙げられるのが、アフリカ由来の宗教だ。これは植民地時代にアフリカから連れてこられた黒人奴隷たちが信仰していたものが、カトリックなど他の宗教と結びついてキューバで独自の発展をしたもので、いくつかの系統に分かれている。このうちハバナやマタンサスなど西部地域で多く信仰されているものはSantería サンテリーアと呼ばれ、これが広くキューバのアフリカ系宗教の総称のように使われることがある。で、大雑把にサンテリーアがどんな宗教かというと、

  • この世の全て想像した神Oldomareオルドマレの下に、Orishaオリーシャと呼ばれる複数の神がいる。起源となったアフリカの伝統的宗教では400以上のオリーシャが存在するというが、現在キューバで重要とされているのは12だけ。
  • オリーシャは、カトリックの聖人=Santoサントやギリシャ神話の神々に相当するようなもの。キューバにおいては黒人奴隷たちが植民地時代に隠れて自らの神々を信仰するため、各オリーシャにカトリックの聖人を割り当てるようになった。
  • それぞれのオリーシャは、自然界および人間界に及ぼす特性を備えている。また、祭日、好みの食べ物、色、数字といったものを持つといった個性がある。例えば・・・(以下カトリックの聖人、自然・人間界に及ぼす特性、色、祭日)

Ochúnオチュン:Virgen de la Caridad カリダッの聖母、川、愛と結婚とお金、黄色、9月8日
Changóチャンゴー:Santa Bárbaraサンタバルバラ、雷、太鼓と舞踊と情熱と男らしさ、赤と白、12月4日
Obataláオバタラー:Virgen de la Mercedメルセッの聖母、大地、平和と精神性と知性、白、9月24日

  • サンテリーアの信者はオリーシャが日常の全ての事象をコントロールすると信じ、これらの神々へ好み供え物を捧げたり、儀式を行って神々からお告げを受けたりして自らの道(人生)を良い方へ導いていこうとする。
  • 信者はそれぞれ自分にとっての「特別なオリーシャ」を持っており、自宅にそれを祀るための祭壇を作る。
  • 信者は直接オリーシャからのお告げを受けることはできない。Babalawoババラオという司祭に当たる人物がオリーシャの言葉を理解して信者に告げる。
  • 信者はオリーシャの力を使って自然界にある力と自らが備え持つ特性の奥にある力のバランスを健全に保つことに努め、最終的には自らの道を切り開いていく。

といった感じだけれど、実際には全くもって複雑でこんな簡単に説明できない。

一般宅にある祭壇、この日はサントの誕生日(修行を終えると信者として生まれ変わった日=誕生日がもうひとつできる)だったので少し着飾って。
同じく誕生日のパーティーでの捧げ物、オリーシャは甘いものが好き?!

ただ個人的にはギリシャ神話やマヤ文明の神々にまつわるお話と同じで、これらの神様たちの話は良くできた物語として興味深いし、キューバの歴史や文化を構成する一要素としてみるとなるほど、と思う部分もある。

ところで旅行者でもこのサンテリーアに触れる機会がある。

キューバで街を歩いていると、全身真っ白な人に出会うことがあるが、これはサンテリーアに入信するための修行中の人だ。サンテリーア入信のためには一定の儀式、通過儀礼を行っていくつかの厳しい規制を守りながら1年間の修行期間を過ごさなければならない。その1年間行う規制の一つが「全身白いものを身につけて過ごす」というもの。頭の先から足の先、持ち物までぜーんぶ白いので一目で分かる。

それから街の角、交差点の道端で動物の死骸を目にしてビックリすることがあるかもしれない。これはサンテリーアで行う様々な儀式で動物を捧げる=犠牲にすることがあるのでその残骸、といってもそうする理由があって「置いてある」のであって決してポイっと捨ててあるわけではない。

これは自宅内で行った儀式の残骸・・・

またサンテリーアに関わる音楽やダンスもキューバの伝統文化として見たり、聴いたりする機会があるかもしれない。

現在、サンテリーアを始めアフリカ起源のキューバで独自に発展をしたいくつかの宗教はカトリック以上にキューバに浸透しているともいわれ、黒人白人関係なく信者でなくてもその習慣や考え方の一部を生活に取り入れている人は多い。それにカトリック信者だったはずの人がサンテリーアに入信することも良くあり、それが完全な改宗というわけでなく、「どっちも信じる」という人がいたりする。また最近はサンテリーアビジネスなるものもあって、外国人でもサンテリア体験なるものができたりする。

オリーシャの祭壇と一緒にサンタクロース、別になんてことない。

時代とともに宗教の形は変わるのだろうけれど、アフリカから来た宗教がカトリックとの融合している点などキューバは宗教までもキューバらしくInventoインベント(発明/でっち上げ)してしまうのが面白い。そしてキューバ人のゆるーい宗教観、ちょっと日本人と似ている?!

キューバと日本

キューバと日本、遠く離れた国同士ではあるけれど、二つの国の関係はとても良い。政治的、歴史的な関係はもちろんのこと、キューバ人は日本という国や日本文化、日本人に非常に関心があり、多くは日本をとても素晴らしい国としてリスペクトしてくれ、俗に言う「親日」であると感じる。社会主義つながりで中国やベトナムとの関係が深いけれど、同じアジアの国でありながら一般市民レベルでも意外にちゃんと各々の違いも認識されていて、その上で日本を評価してくれるのは日本人として嬉しい。

日本の発展したテクノロジーの高さについて「すごいよねー」と羨望されることがよくあるけれど、日本文化に関心を持って「日本大好き」という人も多い。今や世界中にいる日本のアニメ、漫画、ゲームに影響された「オタク」たちもたくさんいる。そして彼らの中には日本語に興味を持って勉強し、驚くほど上手に話す若者もいたりする。

スポーツでいえば野球、今季も日本のプロ野球シーズンが始まってからは日本で活躍するキューバ人選手の成績が連日ニュースで流れる。両国の野球を介した親善が盛んなのはよく知られた通りだ。柔道は世界レベルで有名だし、空手道、剣道、合気道の教室もたくさんあるし、先日は居合道をやっている人がいてびっくりした。

息子の通う空手の教室がハバナ郊外に作った新しい道場。沖縄発祥なんで沖縄風?

歴史的に見ると、キューバを初めて訪れた日本人は支倉常長であるとされる。支倉は1613年伊達政宗の命でローマ法王へ謁見するためローマを目指したその途中でキューバ、ハバナへ寄港した。

支倉常長の像は現在、ハバナ旧市街のハバナ湾沿いの道の脇に立ちキューバ人の間では「初めてキューバへ来た侍」像として知られる。

その後今から120年ほど前に日本から移民としてやってきた人たちがおり、今でも千人ほどの日系人がハバナや青年の島に暮らす。日本と国交樹立してからは今年で92年。ちなみに駐在の方なども含めキューバ在住日本人は、近年90〜100人で推移しているそう。

2018年には日本と国交樹立90年、日系移民120年で日本大使館主催の展覧会も開催された。

政治的な関係でいうと、日本はキューバに対してODAその他の形で多くの支援を行なっている。最近では日本の稲作用の農機具が導入され、早速キューバ各地に配置されたとのニュースがあった。米を主食とするキューバでは、米の自給率をあげるためにも日本から多くの援助を受けて近年その効果が上がっているとのこと。また今、ハバナ市内では昨年日本から送られたオレンジ色のゴミ収集車がそこら中で見られるし、消防車も日本から寄贈されたものが活躍している。

キューバで働く日本のくるま、その1
キューバで働く日本のくるま、その2

一方、一般の企業がキューバに投資しようという動きはアメリカとの国交回復後、一瞬盛り上がったがその後は萎んでしまった。日本人観光客はここ10〜15年で随分増えた。特にアメリカとの国交回復でこちらも「行くなら今!」的なコピーでブーム到来の兆しはあったが、その後落ち込むと言うほどではないにしろ伸びは期待したほどでもなく・・・これらの背後には日本とアメリカ、アメリカとキューバの関係が大きく関わっていることは言うまでもない。

あるカサ・パルティクラルの壁にあった日本人観光客の想い出。キューバへ行ってみたい日本人はまだまだ沢山いるはず!

TVでも日本の番組を時々やっている。アニメだけでなくドラマ、映画、ドキュメント番組まで、『おしん』はもう何度放送されたことか。年配の人だと日本=黒澤明、七人の侍、座頭市という回路の人も多い。そして黒澤を口にする年齢のおじさんの中には日本人と一緒に漁をした体験を持ち、船長と醤油で刺身を食べたことを自慢してくれる率も高い。実際に1960〜70年代には日本がキューバへ漁業関連の技術提供や指導を多くしていた。

それからキューバ人が日本について知っていることで注目した欲しいのは、ヒロシマ・ナガサキの認知度だ。キューバでは学校で子供達に日本の被爆体験について教えられる。毎年8月6日と9日は新聞なりTVなりでなんらかの報道がされ、多くの人がこの日付まで含めてヒロシマ・ナガサキを知っている。

こうやってみるとキューバにいながら、日本に遭遇する機会は意外に多いし、それもあって日本人がキューバについて知っているよりずっとキューバ人は日本について詳しい、と言えるかもしれない。

26 de julio ベインティセイス・デ・フリオ

7月26日はキューバの祝日だ。

Día de la Rebeldía Nacional:国民蜂起の日

キューバにとってこの7月26日という日付は特別な意味を持つ。今から67年前の1953年7月26日、フィデル・カストロらがサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃した日であり、キューバ革命はここから始まったとしてその後の一連の反政府運動と組織をMovimiento-26 de julio (M-26-7  7月26日運動)と呼ぶ由来となった象徴的な日なのである。キューバを旅行中に革命関連の博物館や施設を訪れるとこの数字の旗や腕章に気付くだろうし、7月のこの日近くなら政府関連の建物に大きな赤と黒のM-26-7の旗を目にするかもしれない。

ある年の7月26日、ハバナ旧市街を歩いていて目にしたM-26-7の旗。

1952年、フルヘンシオ・バチスタ軍曹は1940〜44年に続き2度目の政権を狙っていたが、選挙で当選の見込みがないとわかるとクーデターを起こして大統領となり政権を握った。この実施されなかった選挙へはフィデルも立候補を予定していたのだが、選挙で当選して政治家として政府に立ち向かうことを阻まれ、さらに弁護士としてバチスタ政権成立の不当性を提訴するものの相手にされず・・・となると武装闘争へと反政府運動の方向転換をするしかなかった。

フィデルはアベル・サンタマリアらとともにハバナで若者たちを集め秘密裏に計画を進め、最初の襲撃の対象をサンティアゴ・デ・クーバにあるモンカダ兵営とした。ハバナにしなかったのはサンティアゴの方が政府軍の勢力が弱く距離があることから速やかに兵力を送るのが困難なこと、とはいえキューバ第2の規模の重要な軍事拠点ということで襲撃によるインパクトは大きいと想定されたこと、さらにこれを契機に国民を蜂起させるためにも伝統的なオリエンテ(東部地方、スペインからの独立戦争もここから始まった)の気質が有利に働き、たとえしくじってもシエラ・マエストラの山中に入って戦いを継続可能であることを考慮して決めたという。この時点でモンカダ兵営襲撃が失敗しても、その後どのように戦いを進めていくかまで見据えた計画であったことがわかる。

現在のモンカダ兵営。建物外壁には銃弾の跡が残る。革命後は小学校となったが、一部は博物館として利用されていて見学可能。(写真はグランマ新聞より)

そして、1953年7月26日。前々日の24日は市制記念日、当日はサンティアゴの守護聖人サンティアゴの祭日であり、毎年この前後にサンティアゴ・デ・クーバのカーニバルが行われる。この年の7月26日はちょうど今年と同じ日曜日。土曜の夜は祭りも最高潮に盛り上がり翌日は警察や兵士たちも二日酔いと疲れに見舞われ警備が手薄になるであろう隙を狙って選ばれたその日の早朝、フィデルたち122人は3つの部隊に別れて兵営および隣接する病院、裁判所襲撃を決行した。だが大学を出たばかりの若者や職人などの貧困層によるわずかな武器を手にしたグループは武装抗争の経験などもちろんない上、ハバナ出身の彼らは土地勘すらなく目的の兵営にたどり着くにも往生するという全く不利な戦況だった。そんな状況で400人余りの政府側の兵士たちの攻撃にまともに立ち向かえるはずもなく、アベル率いる部隊とフィデルの弟ラウル・カストロ率いる部隊が一旦はそれぞれ病院と裁判所の占拠に成功したものの、兵営本体を狙ったフィデルたちは運悪く兵営周辺の警備隊に見つかって内部侵入前に銃撃戦となってしまった。そして見極めたフィデルは早々に退陣を決め命令を下した。

襲撃そのもので亡くなったのは10名にも満たなかったが、その後の逃走中に多くが捉えられ約半数が拷問を受けて処刑され、その中にはフィデルとともに先頭に立ってグループを率いたアベルもいた。フィデルはシエラ・マエストラへ向かう途中で捉えられ、処刑は逃れたものの投獄されてしまう。そして同年10月の裁判で襲撃グループのリーダーとして禁錮15年の判決が下り、ピノス島(現在の青年の島)のモデロ監獄へ送られた。

フィデルたちの7月26日のモンカダ兵営襲撃は失敗に終わった。

モンカダ兵営襲撃後の裁判で、フィデルは被告人でありながら自分で自分を弁護し本のタイトルにある「La historia me absolverá 歴史は私に無実を宣告するだろう」という有名な言葉を残した。

けれどこの時のバチスタ政権が彼らに対して行った残虐な行為が明らかになり、それまでアメリカ資本の基盤に私腹を肥やし独裁政治を行ってきたバチスタの下で、貧困に苦しむ多くのキューバ人たちの不満が拡大し反バチスタ機運を押し上げ、国民を巻き込んでの運動へと発展していったのだ。フィデルは収監中も裁判の陳述を文章にまとめ、仲間を使って印刷して市民の手に渡るようにするなど革命へ向けた動きを進めていき、これに同調した人々がフィデルの恩赦を求め、それを政府も認めざるを得ない状況となって1955年5月15日、フィデルは仲間とともに釈放された。

その後フィデルはメキシコへ亡命してキューバ革命へ向け新たな組織を結成し、本格的な戦いへ向けた準備を開始するのである。1956年12月、82人でグランマ号に乗ってキューバ東部へ上陸、それから先はシエラ・マエストラでのゲリラ戦を展開して徐々に国民を味方につけ西へと進み、1959年1月1日のバチスタ国外逃亡をもっての革命軍勝利へとつながっていった。

こうしてみるとまさしくキューバ革命の起点はモンカダ兵営襲撃であったと言えるが、その後の革命勝利がなければ一人の若者が起こした反政府勢力の襲撃未遂事件としてキューバの歴史に残るかどうか、といった出来事に過ぎなかったかもしれない。革命成功があってこその26 de julio ベインティセイス・デ・フリオ 、国民蜂起の日なんだと改めて思う。

この時期の新聞には26 de julioの記事がいっぱい。

今では7月26日前後は土日を合わせて連休となるように祝日が設定され、26日当日はその年の祝典開催州で様々なイベントが行われる。が、今年は言わずと知れたコロナ影響でこれらの大々的なイベントは中止となり、小規模な祝典のみ開催された。

加速するキューバ人の行列好き?!

コロナ禍、街で見かける行列がより目立つようになった。キューバの行列に関するネタには事欠かないことについて以前書いたことがあるが、ここにきてまた新たな伝説となるような事態が起きている。

キューバの物不足は深刻で、時にはトイレットペーパー、洗剤、サラダ油といった生活必需品がほとんど市場に出回らなくことがあり、その後入荷されると店の前はその品物を求める人の大行列ができるのは、キューバでは毎度おなじみの出来事だ。

それが最近ハバナでは毎日、ありとあらゆるところで大行列を目にするという当たり前の光景となっている。

コロナ感染予防対策で多くの店が閉まっている上、人々の行動範囲は限られているから余計に行列ができやすいというのもあるが、その行列の先にある品物も食料品や衛生用品といったものがほとんどで、入荷状況もより限定されているように思う。ここ1ヶ月に我が家のある団地の店で売られたものといえば、

肉類:鶏肉、ソーセージ類、挽肉(なんの肉だか不明)

野菜類:バナナ、芋類、かぼちゃ、パパイア、マンゴーやグアバなどの果物、アボガド、ナス、ニンニク

その他食品:サラダ油、輸入品のりんご、トマトソース、炭酸飲料、パック入りジュース、ヨーグルト、ツナ缶

衛生用品:トイレットペーパー、洗濯洗剤、消毒液(漂白剤)、デオドラント

このほか配給品として、米、パン、砂糖、塩、豆類、コーヒー、鶏肉、ハム、卵、石鹸、歯磨き粉。

これくらいのものしかなくても、これしかなかったら皆必死に手に入れようとする。その結果「品物がなくても行列ができる」という現象が起きているのだ。

全くもって??!!

だとろうが、つまり「もしかしたら鶏肉が入荷するかもしれないからとりあえず並んで待とう」というわけ。これがエスカレートして、前日の夜から行列ができる事態となってしまった。もちろん全ての人が徹夜するわけでなく、その役割を買って出る人がいて家族や友達のために寝ずの番をする。中には順番を「売って」商売をする輩も出現する。そして、いざ何かが入荷した!となると瞬く間にその情報が伝わり、実際に行列をした人の何十倍という人がそこら中からワサワサとやってきて、物凄い人の列が形成される。どう見ても超密状態である。

店頭での混乱を避けるため、少し離れた公園にてまずは行列形成

この行列を制御するために店の人だけでなく、警察数名と地域の役員(キューバには日本の自治体に似た組織がある)が立ち会って大騒ぎ。警察は全ての人に品物が行き渡るようにするためと転売防止のため、同じ人が続けて同じ商品を購入しないように全員の身分証明書をスキャンして保存、その管理のためのアプリまで今回開発されたそうだ。さらに行列を乱さないようにまず整理券が配られ、これにしたがって順番に店に入って買い物、おひとり様当たりの購入数はもちろん限定。

公園の行列から、10人ずつ整理番号順に店の前へ向かう。なぜかここでは間隔をあけて整列させられる。
本日の整理番号
店内も人数制限。売っているのは本日の入荷商品鶏肉とレジの後ろに並ぶ商品のみ

もうホント、コロナのおかげでキューバの行列に新たなルールが次々に加わって訳がわからない・・・もちろん好きでやってる訳じゃないとわかっている。が、申し訳ないけれど、外国人でモノに不自由なく生きてきた私にはお手上げなので夫に頑張ってもらうしかない。

本日の勝利品「鶏肉」お一人様2袋限定

キューバの物不足の原因は何か?

一番はアメリカの経済封鎖と言わざるを得ない。キューバは革命後、アメリカの制裁を受け続けている。単純にアメリカから製品や原料が入ってこないというだけでなく、原材料をアメリカで調達して他国で生産された品物の輸入、キューバへの送金、キューバへの支援等あらゆるものが制限されている。アメリカがダメなら他の国から、と思ってもキューバを助けようとするとその国がアメリカからの制裁を受けることになってしまうから、それもままならない。また小さな島国であるキューバは資源に恵まれているとは言えないので、自国の産業発展のためには原材料と燃料(原油)を輸入するしかないのだが、同じ理由でありとあらゆる産業の発展が制限される。キューバが特に力を入れ、世界的にも名高い医療分野でも優秀な医師は多く育成されても、最新の機材を導入できない、病院の設備を整えることができない、といったことが起こる。また多くの特許を持つ医薬品も原材料が入手できないため、生産がストップしている製品が数多くある。病院で薬を処方されても薬局で入手できないのは日常茶飯事、自国で生産できるはずの医薬品をなぜかアメリカに住む家族に頼んで送ってもらう、という皮肉な事態が起きる。

フォトジェニック・キューバ

世界中にフォトジェニックな場所は数あれど、キューバの「素敵な写真が撮れる度」今でいう「インスタ映え」はやっぱり格別だと思う。街並み、自然、人物、どれを撮っても間違いなく絵になる。中でも街並み、フォトジェニック大賞都市部門があったら上位入賞は硬い。

自分自身、最近ではほとんど写真を撮らないし、スマホだけでカメラすら持たなくなってしまったけれど、いろんな人の撮るキューバを見る度にそう思う。そして写真に収めなくても毎日その景色の中にいて、ハバナの街中で面白いカットを楽しみながら散歩するのが何よりも好きだ。もちろん、時にはスマホを出して記録してみるけれど自分の腕では「言葉」を添えないと、何かを伝えることは難しい。

そんなハバナの街で、記念の写真をプロのカメラマンに撮影してもらうフォトセッションに何度か同行したことがある。多くは新婚カップルのウェディングフォト、男性はタキシードだったり少しカジュアルな感じだったりするのだけれど、女性はほとんどがドレスを着て臨むので、撮影しながら街ゆく姿は嫌でも目立つ。慣れないモデル体験と皆の目線とで、最初はぎこちない二人も、プロカメラマンのリードと道ゆくキューバ人達の「¡Felicidades! おめでとう」の声に少しずつ緊張がほぐれて、自然な笑顔が出てくる。どこを切り取ってもバシッとフレームにハマるハバナの街を、モデルになった気分で歩きながらの撮影そのものが素敵な想い出になる。

モヒートで有名なバー、ボデギータ・デル・メディオ前で。

旧市街で会ったバレエ学校の子供達とポーズ。

コロニアルな建物の中へお邪魔して撮影も。

クラシックカーも思いのままに使って。

青い海をバックにビーチを裸足で、手をつないで。

沈みゆく夕日とハバナの街をバックに。

こうやって1日一緒について回って写真に収まる二人の姿を見ていると、もう完全に花嫁の母の気分になってくる。

このハバナでのフォトセッション、他では絶対にない唯一無二の写真が撮れることはもちろん、旧市街など主な見所を巡りながらの撮影となるので、市内観光も一緒にできてしまう(しかも荷物持ち兼ガイド付き!)という、まさに1粒で2度美味しい企画なのだ。ウェディングフォトでなくても、カップルでなくてもOK、せっかくこんなにフォトジェニックな街に来たのだから、スマホのセルフィ−だけでなく少し時間をかけて想い出作りをするのもいい。パパッとSNSにアップして終わりではなくて、引き伸ばしてプリントして部屋に飾りたくなる写真になるはず。そしてその写真を見る度にキューバを想い出してもらえたらすごく嬉しい。

トリニダ、ロス・インヘニオス渓谷を列車でゆく

キューバで最も古い街のひとつトリニダ、コロニアルな建物と石畳の道が残る街の中心とともに世界遺産に指定されているのが、トリニダ郊外のロス・インヘニオス渓谷だ。渓谷一帯ではキューバのサトウキビ産業が最盛期だった18〜19世紀に、黒人奴隷を労働力として大規模なサトウキビ農園が営まれていた。これらのサトウキビで財を成した富豪たちが住んでいたお屋敷がトリニダ市内に残る大きなコロニアル建物、だからトリニダとロス・インヘニオスは切っても切れない関係ということで、一緒に世界遺産となっている。

インヘニオスとはスペイン語で製糖場のことで、当時は各地主が農場内に簡易の製糖場を持っていて砂糖の生産まで同じ場所で行っていた。その製糖場の跡が渓谷内に点々と残り、これらのいくつかは観光用に整備され見学可能となっているので、現在もサトウキビ畑が広がる渓谷の景色を楽しみながら、各所を訪問することができる。

トリニダ市内に宿泊しているのなら、タクシーを使って半日観光でロス・インヘニオス渓谷を巡ることができる。通常は渓谷を見渡す展望台、製糖場の遺構がよく残るサトウキビ農園跡、同じく農園跡でてっぺんまで登れる塔で有名なマナカ・イスナガあたりを見学する。時間に余裕があって鉄道に興味のある人には、観光列車で行くロス・インヘニオス渓谷もオススメ。車より時間がかかるけれど、のんびりレトロな列車にコトコトと揺られながら渓谷の景色を楽しむことができる。

トリニダの街はずれにある鉄道駅、この観光列車専用の駅舎。

チケット販売は当日9:10から。事前予約不可、不定運休につき翌日の列車の有無を前日に確認のこと。9:30出発。

トリニダの街を出てしばらくサトウキビ畑の広がる中をゆっくり列車は行く。往復のどちらかでマナカ・イスナガへ寄って1時間ほど停車。下車して見学、もちろん塔に登って360度の絶景を楽しんだり、サトウキビジュースを試したり。

折り返し点はGuachinangoグアチナンゴの近代製糖工場跡。

1893年から2001年まで操業していた工場跡で、煙突や工場内で使われていた機械、大型農具、機関車までそのまま廃墟された状態を見ることができる。廃墟マニアにはたまらないという見事な放置っぷり。ここでも小一時間見学、休憩。

以前は観光蒸気機関車を走らせていたようだけれど、現在はディーゼル車を使用。客席は木製、窓がないので少し強い雨が降ると濡れる・・・飲み物やサンドイッチなど車内販売なるものもあり、モヒートもちゃんと作ってくれる。キューバ音楽を演奏するバンドは乗っていることも。

キューバの鉄道の歴史は、サトウキビ産業とともにある。サトウキビや砂糖を運ぶために世界的にもごく早い段階で敷設された。こうやって残る路線がサトウキビ畑をぬって工場跡まで延びているのも納得。帰りも同じ路線を行くのでちょっと退屈で、お尻が痛くなるのはちょっと我慢。トリニダ駅に帰ってくるのは午後3時ぐらい。

トリニダへ行ったらコロニアルな町並みを楽しむのと同時に、キューバの砂糖産業の歴史についても学ぶことをお忘れなく!