ハバナクラブとバカルディ

キューバのラム酒メーカーとして有名なのは、何と言ってもHabana Clubハバナクラブ。メジャーな商品は日本の一般的な酒屋でも手に入るし、キューバ旅行の際にはハバナクラブのロゴをラム酒ボトルだけじゃなくて、Tシャツやキーホルダーのデザイン、グラスと色々なところで目にするはず。もちろん旅の途中で口にすることもあるだろうし、お土産として1〜2本買って帰る人も多い。地元の人にも好まれるキング・オブ・キューバンラムだ。

ハバナクラブの商品ラインナップ、このうち日本でもいくつかは比較的簡単に手に入る。
Photo by EcuRed

日本でも輸入物も含めたくさんのラム酒の銘柄が手に入ると思うけれど、最もよく知られているのはバカルディではないだろうか。バカルディがラム酒と知らなくても、「コウモリマークのお酒」といえば分かる人も多いかもしれない。少し前に日本でモヒートブームがあり、その時もバカルディが大々的にモヒートのベースとしてラム酒を宣伝したり、カクテルそのものを飲みきりサイズのボトルで販売していたりしたと聞いた。個人的にはレゲエにはまっていた時期にジャマイカのマイヤーズをよく飲んでいたけれど、コウモリがちょっとイカつい印象のバカルディのボトルもよく目にしていた記憶がある。

バカルディラムでモヒートを・・・の広告。Photo by Amazon.com

実はこのバカルディも元々キューバのラム酒ブランドだ。歴史的にはハバナクラブよりも古く1862年キューバ東部サンティアゴ・デ・クーバで、スペインからの移住者Facundo Bacardíファクンド・バカルディ氏が設立した蒸溜所に始まる。バカルディの品質にこだわって独自の手法で生まれた蒸留酒はキューバで初めての本格的ラム酒として人気を博し、1900年代初頭にはキューバだけでなく世界に知られるようになった。1959年の革命勝利後、企業の国有化が実施された時にはすでに海外に拠点を持っていたこともあり、キューバを去ってプエルトリコ、その後英領バミューダ諸島に本社を移しさらに大きく成長、今では世界最大級のラム酒ブランドとなったというわけだ。

20世紀初頭、キューバにまだバカルディがあった頃の広告。
Photo by バカルディジャパンHP/bacardijapan.com

一方、ハバナクラブは1934年、ハバナの隣の州現在のMatanzasマタンサス州カルデナスでJosé Alechabalaホセ・アレチャバラが設立したラム酒製造会社だ。会社は革命勝利後、国有化され現在にいたり、国を代表するラム酒ブランドとなった。だから今ももちろんハバナクラブはキューバ国営企業。ただし海外市場はフランスのベルノ・リカール社との合弁で設立されたハバナ・クラブ・インターナショナルが担当し、世界中でハバナ・クラブが販売されている。ちなみにアレチャバラ家は革命後スペインを経てアメリカへ移住したのだが、そこでハバナクラブの商標を登録して、一時期バカルディ社からハバナクラブという名の商品を販売していた。その後更新手続きを怠ったとかで商標権が失効してしまい、のちにキューバ政府がアメリカでの登録申請をして一度は認可された。が、本件その後すったもんだがあった末に最近になってやっとアメリカでキューバ政府機関がハバナクラブの商標権を持つことが認められた、という話だ。こんなところにもキューバとアメリカ両国の関係、ここ100年ほどの歴史が反映している。

こうした歴史背景があって現在バカルディ商品はキューバ国内で販売されていないのだが、バカルディ家の残した遺産は見ることができる。発祥の地、サンティアゴにあるバカルディ博物館は初代ファクンド・バカルディ氏の息子、エミリオ・バカルディが市長だった当時、邸宅の一部を博物館として公開したことに始まる。建物も含めてキューバの歴史に関する展示ともにバカルディ家のコレクションなど豊富な資料があり、とても見応えがある。

プラサホテルの裏手すぐ。付近にある他のコロニアル調の建物とは全く違った意匠で目立つのですぐに分かる。

ハバナの旧市街には旧バカルディ本社ビルが残っている。1930年キューバで初めて建てられたアール・デコ調のビルで、当時ハバナで一番高い建物でもあった。正面中央の塔のてっぺんにはバカルディ社のシンボルであるコウモリの装飾が施されている。現在は国内外企業の事務所が多く入るオフィスビル。建物としてもとても魅力的なので、旧市街散策中に是非チラッと見て「バカルディはキューバの会社だったんだなあ」と思い出してもらいたい。そしてそのあとはハバナクラブを使ったカクテルをどうぞ!

キューバ、新しい日常のはじまり

先週政府より、10月12日よりキューバの新たなコロナに対する取り組みが始まることが発表された。ほぼ全土で感染拡大の傾向が収束に向かっており、すでに7ヶ月に渡って停滞している経済活動を再開して国の現状を打開するために、コロナや感染症と共存する「新たな日常の生活様式」を提唱してポストコロナへ移行する、ということらしい。

我が家の近所のバス停にも以前のようにバス待ちの人たち

ハバナはいきなり回復期の規制緩和フェーズ3へ。10月3日に明確な表現はなかったもののほぼフェーズ1(この時どの段階にあるかは明言されなかった)となり、2週間もたたないのに一気にフェーズ3へ飛んだ。

フェーズ3:サービス、生産活動のほぼ正常化、感染リスクを最大限考慮し、感染減少のために各予防対策を守って行動する。

細かい政策はおいといて、大雑把にいうとこれだけ。公共機関や各経済活動が再開されるが学校は先日の発表通り11月2日からで、ハバナ国際空港の閉鎖は継続。

ということは結局、6月に出された段階的緩和のクソ細かい対策はほぼ意味なし?!確か当初の予定だとフェーズ2で学校が始まって地方間の移動が可能になり、フェーズ3では空港も開いて外国人観光客の受け入れが始まるはずじゃあなかった?移行の基準である人口当たりの感染者指数がここ10日間の数値が劇的に向上した訳でもないのに、「飛び級」したのは何故??

まあ、いい。何はともあれ大前進!!

たくさんの人の往来がある旧市街のオビスポ通り、ただし観光客の姿はまだない

そのほか8月以降に感染が拡大したサンクティ・スピリトゥス州とシエゴ・デ・アビラ州は限定的な感染期のまま、上記の3州以外は回復期フェーズ3を経て「新たな生活様式」を採用する段階へ。

新しい日常の生活様式:サービス、生産活動の回復と安定。感染病監視を強化し、衛生対策の遵守と制御するとともに、新しい生活様式の採用により各自の責任で健康状態の維持につとめる。

具体的に挙げられた内容のいくつかを挙げると・・・

  • 感染病を受け入れた上で新しい生活様式を模索しながら正常化を目指す。
  • マスクは密閉した空間、学校、職場、医療保健関連施設、宗教行事、食料品生産工場などで着用義務を継続する。ただしこれらの場所で人が密集しないようであれば状況に応じて柔軟に対応することができる。
  • ソーシャルディスタンスを保つ。
  • Covid-19の症状、他の感染病の症状のある者が学校や職場へ入ることを厳しく制限する。それらの症状のある者は速やかに保健機関へ向かうこと。
  • 職場や公共交通機関などでの手や接触面の消毒は、義務とする。
  • 常時、対面で仕事をし感染の危険にさらされている労働者、特に医療関係従事者に対する保護対策を保証する。
  • 政府の臨時委員会による毎日のミーティングはなくす。本件に関する地域ごとの分析と指数のチェックは継続し週に2回の会議を実施する。
  • 毎日開催していた保健省のCovid-19感染状況に関する記者会見は、以後週1回金曜日に実施する。

要するに感染予防対策として国が国民に対して強要することは少なくなるが、その代わりに各自が自己責任で感染しないように努めて新たな生活様式を身につけましょう。ということか。

旧市街のビエハ広場、観光客はなく寂しい・・・

何れにしてもやはりコロナ以前の活気や人々の動きが戻るには、海外からの観光客受け入れが再開されないと難しそうだ。多くの個人経営者が従事するカサパルティクラル経営や土産物屋、個人経営のレストラン、タクシー、旅行代理店、こういったところの活動が始まらないとどうにも経済回復にはつながらない。数字だけじゃなくてキューバがどれだけ観光業に依存しているのか、改めて実感。

普段は観光客で賑わうカフェも、今は地元の人用に食料品を売る

チェ・ゲバラの命日に

10月9日はチェ・ゲバラの命日、1967年に亡くなって53年。

キューバでは英雄たちの誕生日や亡くなった日はとても大事にされるのだが、チェの場合は誕生日の6月14日よりもこの命日の方がチェ関連の報道や記事を目にするような気がする。当たり前だけどチェはアルゼンチン人であるから生まれたのはキューバではないし、生まれた時にはキューバと何ら関係のない環境にあった。一方で亡くなったのは革命後キューバを去った後に、新たな革命を起こそうとして戦っていた最中に捕らえられたボリビアの山の中。終焉の地もやはりキューバではないのだけれど、すでにキューバ革命を率いた一人として世界中に名が知れた人物として最後を遂げたのだから、キューバにしてみれば亡くなった日にフォーカスがいくのが当たり前か。また当時のアメリカ寄りだったボリビア・バリエントス政権に捕らえられて処刑される形だったことも、「チェが帝国主義に屈して殺された」と革命の延長上で早すぎた死に与えられる意味があり過ぎるから、かも。

Photo:Liborio Noval, Granma新聞より

亡くなった時チェはすでにキューバ国籍を与えられてキューバ人となっていたし家族も皆キューバに暮らしていたが、すぐに遺体はキューバへ戻ってくることができなかった。没後30年の1997年にボリビアで発掘され同志たちと共に遺骨がキューバへ送還されサンタクララの霊廟へ葬られたのだが、このことは日本でも報道された。当時チェ・ゲバラがどんな人物かほとんど知らなかったのだが、写真もない数行の新聞記事がなぜだか目に留まりチェの遺体がボリビアで発掘されDNA判定で本人のものであると確定されたこと、が記されていたことを異常によく記憶している。

Photo:Osvaldo Salas, Granma新聞より

チェ・ゲバラについてはイヤというほど書物も研究も情報があってその一部を読んだことがあるし、世界中で彼を慕って愛する人がいる人気者であり英雄であるのは分かっているし、「チェ・ゲバラが好きだから」という理由でキューバを訪れる人がたくさんいることも承知している。でも個人的にチェについてどう思うか、どう評価するかを問われたら返答に困る。集めた情報からできるチェのイメージのどこからどこまでが現実なのか、どの部分が虚像なのかうまく整理ができない。面識もなく、同じ時代を生きた人ではない自分にとってすでに歴史上の人物なんてそんなものだろうけど、なんというかあまりに掴みどころがないというか・・・だから、ましてや

「キューバ人にとってチェ・ゲバラはどんな存在なのか?」

という質問にはとてもじゃないけれど、答えられない。もちろん悪気があるわけじゃないのだけど、非情にもこの手の質問を投げかけてくる人がよくいて困ってしまう。そんな時はお土産のTシャツだけじゃない今のキューバ社会に見られるチェの面影、お金の肖像だったり、小学生の教科書に掲載されたチェのエピソードだったり、中学生の制服のエンブレムに使われている「Che」のサインだったり、チェの命日に行われるサンタクララの行事についてだったり、について話して答えになっていないと分かっていながら濁す。

2017年没後50年の式典前日にサンタクララの革命広場へ行った。小雨の降る中、本番リハーサル中の様子

そんなチェについて実在した生身の人間だったことを最も感じさせるのがボリビアで書かれた日記。ボリビアでのゲリラ戦に苦戦し、仲間との確執や自身の喘息の悪化に苦しみ、そうした状況にあって日記の中で弱音を吐いたり、愚痴を言ったりする「カッコ良くないチェ」がすごく人間らしくて愛おしく感じてしまう。


キューバで出版された『ボリビア・ゲバラ日記』初版 Photo by EcuRed

日本語にももちろん翻訳されているので、是非!

ハバナ遠景を楽しむ、カバーニャ要塞とモロ要塞

ハバナの街は要塞と城壁で防御された都市だったが、今でもそうした防御施設の跡が残っている。旧市街散策中にはアルマス広場のすぐ横にフエルサ要塞、ハバナ湾岸をマレコンに向かって歩いていくと外海に接する付近にプンタ要塞がある。そして旧市街からハバナ湾を挟んで対岸に目をやると、高台にある灯台を備えたモロ要塞、その横に長い石垣が岸壁上部に張り付いたように見えるカバーニャ要塞を望むことができる。

プンタ要塞付近から見るモロ要塞

要塞は「戦略上の重要地点に設けられる、主に防衛を目的とした軍事施設」であるが、これらの要塞も16世紀から18世紀にかけてスペイン植民地時代にハバナの街を守るため築かれたものだ。当時のカリブ海の島々はスペインが南米各地で採掘した金銀などを本国へ輸送する際の中継地点として重要な役割を果たしていたが、キューバもそれらの財宝を狙った海賊、植民地争いをしていたイギリスやフランスといったヨーロッパ各国の攻撃から街を守るために、要塞や城壁を作る必要があった。これらの石造りの強固な施設を見るとハバナの街の置かれた当時の状況だけでなく、スペインの財力や建築技術などを見知ることができる。歴史に興味がなくても、その大きさに驚き絶壁に組まれた巧みな石造りの急勾配に要塞としての役割を実感することができるだろう。だがモロ要塞とカバーニャ要塞をオススメする理由は他にある。

要塞から見えるハバナの街だ。

オー、マイ・ハバナ!

モロ要塞はハバナ湾の入り口の断崖をうまく利用して作られた要塞、ハバナ側から見る要塞内にある灯台を含めたその姿はハバナのシンボリックな景色のひとつとしてお馴染み。要塞内のテラスの部分には大砲が添えられ当時を彷彿させるが、この一番高いところからは視界の左半分にハバナの街、右半分に青い海が広がる。入場せずに、要塞の裏を巨大な堀に沿って行くと、本体から離れて外海に突き出たようにある砲台のあったテラスに出る。ここからの眺めも絶景。

テラス状の張り出しに立つと、その向こうは絶壁。柵も何もないので気をつけて

要塞の最も高低差の大きい張り出し部を横目に、遠くにマレコン沿いの建物の並びが伸びるのが見え、夏場はその横の海に太陽が沈む絶好の夕陽スポットなのだ。反対側に目をやれば真っ直ぐな水平線、天気が良ければどこまでも青い海が輝いて見える。冬場には荒波が要塞の壁と海岸の岩に叩きつける様子が見られるが、これもまた迫力があっていい。

観光客たちもここに集まって陽が落ちるのを待つ

カバーニャ要塞は、カリブ海域で最も規模の大きな要塞。ハバナ湾側に一直線に伸びる石垣の上にあるテラスには大砲が並ぶが、有名な大砲の儀式Cañonazoカニョナッソは毎晩ここで行われ、重要な軍事関連の行事や外国軍艦の入港時などにはここでセレモニーを行い大砲を打ち鳴らす。広いカバーニャ要塞内はチェ・ゲバラの執務室ほか展示施設もあって見所は多いが目玉は、やはりここから見える対岸のハバナ市街遠景。手前の旧市街、カピトリオの光り輝く黄金のドームが一際目立つ。奥には革命広場のホセマルティ記念館の塔、平らな土地に広がるハバナの街の様子を一望できる。

大砲の並ぶテラスからハバナを望む

この要塞側から見るハバナが最高に好きだ。何度行っても大きく手を広げて、抱きしめたくなる。¡Ay, mi Habana! (ああ、私のハバナよ!)って。

Castillo de los Tres Reyes del Morro モロ要塞
入場:10:00-17:00
Fortaleza de San Carlos de La Cabaña カバーニャ要塞
入場:10:00-17:00, 18:00-21:00(大砲の儀式)
旧市街からは目と鼻の先だが、車を使って海底トンネルを通っていくか、ハバナ湾の両岸をつなぐLanchoncitoランチョンシート=小さな渡し船に乗っていかねばならない。クラシックカーでハバナ湾対岸、カサブランカ地区にある見所を回ることも可能。

トリニダ、サン・イシドロ遺跡

ハバナより古い歴史を持つトリニダは、小さな街ながらコロニアルな建物がよく残るとても魅力的な街でユネスコ世界遺産にも指定されている。この街並みとともに郊外のロス・インヘニオス渓谷も18、19世紀のサトウキビ農園跡が残り現在でもサトウキビ栽培が継承され当時の雰囲気をよく残しているとして同じく世界遺産となっており、トリニダから観光列車やタクシーを利用して日帰り観光で訪れることができる。

展望台から見るロス・インヘニオス渓谷

このロス・インヘニオス渓谷にいくつかあるサトウキビ栽培が最盛期だった18〜19世紀当時、小規模な砂糖製糖工場を営んでいた農園跡のひとつが、San Isidroサン・イシドロ遺跡だ。渓谷の中を走る幹線道路から少し外れた山の麓にある遺跡までは、ここ数年で遺跡の整備が進み観光客も増えて多少マシなったとはいえ、まだ舗装されていないガタゴト道をゆっくりと進んで行く。

ロス・インヘニオス渓谷に点在するサトウキビ農園跡。中央の丸で囲んだところがサン・イシドロ

遺跡は現在も調査中、かつて日本で遺跡の調査に携わっていたことがあり訪れるたびに遅々としてだが進んでいる調査の様子が実は気になって仕方ない。ガイドとして説明しつつ、調査の進捗具合を密かにチェックするのが実は楽しみ。とはいえ、ちゃんとした調査報告を確認したこともないので、果たしてどんな成果が挙がっているのかよくわからず説明看板と遺構の状態を見てあれこれ想像するだけだけど・・・

そんな個人的な思い入れもあって、サン・イシドロ遺跡は当時の製糖農園の様子を再現し、キューバにおける奴隷制度や植民地制度とサトウキビ栽培の発展の関係を知るに当たってもとても興味深くオススメだ。

農園主の屋敷跡:農園主は普段はトリニダの街にある屋敷に住み、農園滞在時に過ごした建物。トリニダ市街にあるコロニアル建物と用いられているパーツは同じでも、全体の構造が違うのが面白い。

塔跡:三重塔。有名なマナカイスナガの塔にははるかに及ばないけれど、こちらも鐘釣台兼見張り台としての役割を果たしたもの。修復が済んで登れるようになった。

塔の上から農園領主の屋敷を望む

Trapicheトラピチェ:トラピチェはサトウキビからジュースを取るための搾汁装置。当初は人力や家畜を使ったものだったのが、蒸気機関の発明により後に機械化された。トラピチェを据えた跡のみが残り実際にどのタイプが使われたのかは不明だが、1900年代初頭に使われていたものがお隣の農園マナカイスナガに今でも残っている。

マナカイスナガのトラピチェ、今でもこれを使って絞ったサトウキビジュースを飲ませてくれる

Tren Jamaiquinoトレン・ハマイキーノ:「ジャマイカ列車」と名付けられたこの施設は、サトウキビジュースを大鍋で煮詰めて砂糖を結晶化するためのもの。フランスで発明されジャマイカ経由でキューバへ持ち込まれたことからその名がある。砂糖が鍋の底で焦げないように直接各釜に火を当てるのではなく、一番端の大鍋に沸かした湯からの蒸気を流してゆっくり加熱して結晶化させるよう工夫がなされている。その蒸気の流れる様子が蒸気機関車の煙のようで各釜を連なる客車に見立てて「列車」と呼ばれるようになったとか。当初は覆い屋根もあって熱がこもるとてつもない暑さの中での作業だったはずだが、大事な砂糖を焦がさぬよう火加減の調整を任されたのは、奴隷の中でも農園主に信頼されたものだったという。釜の据えられた丸いくぼみの形、基部のアーチ構造など曲線に組んだレンガ作りも美しく、その構造も非常によく分かって保存状態もいい、この遺跡の目玉となる遺構だ。ちなみに燃料にはサトウキビを絞りカスが使われていたそう。

「ジャマイカ列車」見事としか言いようのない遺構の残り具合

蒸留施設跡:建物の壁のみが残るが、ここには蒸留酒を作る施設があった。砂糖の生成過程でできる糖蜜を発酵、蒸留させてAguardienteアグアルディエンテという蒸留酒を作った。これを熟成させるとラム酒になる。酒は奴隷たちが過酷な労働に耐えるために感覚を麻痺させる麻薬の役割も果たしていたという。

農園内でお酒まで作っていたとは実に効率的

浄化作業小屋跡:結晶化した砂糖は素焼きの器に入れて一定期間置くことで分離、浄化されて砂糖として精製される。その容器を並べて保管する大型の小屋があった場所。現在は建物の基部礎石が残っているのみ。周辺に土器のかけらが多く散らばっているのがそれっぽい。

奴隷小屋跡:奴隷が過ごした小屋の跡。レンガで作った農園主の屋敷やその他の施設とは違い石造の粗末な建物。壁が立ち上がって残っている部分もあり、壁で仕切られて方形の小部屋が並んでいたことがよく分かる。4m四方ほどのスペースに8〜10名ほどの奴隷が一緒に暮らしていたという。奴隷たちは家族をなし子供を設けることは許されていた。なぜならその子供も奴隷となり、新たに奴隷を購入することなく労働力を増やすことができたから。

キューバの砂糖産業の発展を支えた奴隷たちは、家畜同然の扱いを受けていた。

そのほかにも井戸、ダムとそこから引かれる水路、水路を渡る橋の跡、粘土を練る装置跡、地下貯水池といった遺構が残っていて、当時の典型的なサトウキビ農園と製糖施設の様子を再現するに十分な資料だ。

行く度に進化するサン・イシドロ遺跡、今後も少しずつ調査が進んでその成果を活かして遺跡全体が整備されるのが楽しみだし、より多くの人が訪れる観光資源としても大いに期待できるのではないかと思う。

だから遺跡入口の道、舗装してね!

キューバでラム酒を

旅先でその土地のお酒を試してみるのは、アルコール好きでなくても楽しい体験のひとつだ。キューバについてちょっと調べれば、「現地で絶対飲みたいカクテル、モヒート」とか「ヘミングウェイの通ったフロリディータでダイキリを」なんていう記事を目にする。モヒートもダイキリもキューバ発祥といわれるキューバを代表するカクテルで、キューバを旅行すれば一度は口にする機会があるだろう。どちらも清涼感あふれる飲み物でカッと太陽の照る暑いキューバで飲むと、これがまた格段に美味い!

レストランやバーには必ずあるモヒート、色々な場所のものを飲み比べるのも楽しい

このモヒートもダイキリもラム酒をベースにしたカクテル、ちょっとお酒好きならキューバといえばラムとすぐに出てくるだろうけれど、そうでなければモヒートやダイキリは知っていてもそのベースがラム酒であることは知らない人もいるかもしれない。

キューバでお酒といえば、ラムなのだ。

Ron:スペイン語では「ロン」。もちろんキューバ人たちはRon大好き、お酒を飲む=Ronを飲むで、パーティーはもちろんキューバ人たちとのちょっと集まり、ドミノをしながらのお供にとRonは欠かせない。ホワイトラム、熟成した琥珀色のラム、ブランドの高級ラム、配給所で量り売りされているラム、どんなラムでも多くはストレートで飲む。家庭や身内のパーティーではカクテルなんて面倒なことはしないので、せいぜいコーラなどの炭酸飲料で割るかレモン果汁を加えて飲むのが普段の飲み方。アルコール度数は40度前後と高いけれどほのかに甘みがあるので意外に飲みやすく、味わいがある。飲みすぎなければ、ゆっくり知らず知らずのうちに気持ちよーく酔えるのが個人的には好きだ。

レトロな雰囲気のバーでラムを

このラム酒の原料となるのが、砂糖。

キューバの砂糖の歴史はコロンブスが2回目の航海の際にキューバに持ち込んだサトウキビの栽培に始まる。当初は果たしてこのカリブの島でアジア原産とされるサトウキビが育つのかという懸念もあったらしいが、キューバの気候と土壌が適していたことから各地で栽培され砂糖の生産がキューバ中に広がった。そして18世紀から19世紀にかけて砂糖ヨーロッパ向けの需要の高まりとともに世界的に有名な砂糖生産地となった。現在でもキューバの主要産業、輸出品のひとつだ。

サトウキビ photo by EcuRed

ラム酒はその砂糖の副産物、砂糖の生成過程でできる「糖蜜」を発酵、蒸留、熟成させて作られる。18世紀後半には砂糖農園で働く黒人奴隷たちが作って飲んでいることが知られるようになり、19世紀になると蒸留装置が持ち込まれ「商品」としてのラム酒作りが本格的に開始された。そうして現在ではキューバのお酒といえば、ラムとなったのだ。

キューバのラムといえば、ハバナクラブ。写真は宣伝広告から

ところでサトウキビ=砂糖とラム酒の関係は、日本の米と日本酒の関係に少し似ている。サトウキビはキューバの全土で栽培され全国各地に製糖工場があり、工場の近くには蒸留所があってそれぞれ独自の方法、香り付けをした異なる風味のラム酒、銘柄が存在する。日本の酒蔵のように無数にはないけれど、キューバ各地に蒸留所があって「地ラム酒」が作られているわけだ。

お酒好きの方、通の方、キューバのラム酒を是非カクテルだけでなくストレートで飲んで、 ハバナクラブ以外の銘柄もお試しを!

サルサはうまく踊れない・・・

キューバといえばサルサ。サルサは音楽ジャンルのひとつであるけれど、それだけでサルサダンスをイメージする人も多いことだろう。私自身もキューバやラテン文化にまだあまり詳しくない頃には、サルサはダンスと思っていた。ラテンについて興味がなくても、ダンスとしてのサルサを知っているということもあり得るし、サルサダンスからラテンにハマっていく人も少なくないはずだ。

そうしてサルサにのめり込んだ人は、キューバに憧れる。

これまでにサルサを踊りに、サルサを習いに、サルサフェスに参加するためにキューバを訪れる人達にたくさん出会った。ハバナ旧市街のサルサダンス教室はいつも様々な国の人たちで満員御礼だし、Casa de la músicaカサ・デ・ラ・ムシカへ行けば、現地の人顔負けに上手に踊る外国人を見かける。

ハバナ旧市街にあるサルサ教室の様子

サルサダンスの起源については諸説あるのでおいといて、その音楽もダンスもキューバでは皆が大好き、ポピュラーなものであることは間違いない。最近の若者の間では新しいジャンルの音楽の方がメジャーになってきているから、もうどちらかというとキューバ伝統的音楽といってもいいかもしれない。ダンスにしても、キューバ独自の数組のカップルが輪になって相手を変えながら踊るRueda de Casinoルエダ・デ・カシーノというスタイルで踊ることのできるのは、40歳代以上の人なんじゃないかと思う。もちろんダンスを勉強していたり、ミュージックVTRに登場したりするダンサーたちはできるだろうけど・・・

Rueda de Casinoルエダ・デ・カシーノを踊る人たち photo by Cubadebate

派手にクルクル回って高く脚を上げ、男性が女性を持ち上げたりするNYスタイルと呼ばれるダンスも素敵だけれど、どうせやるなら細かなステップを刻んで男女が絡みあいながら流れるように踊るキューバンスタイルがいいなあ、と思った。たまたま日本で初めてサルサを教えてもらった女性がキューバ人、エクアドルで通っていたサルサ教室にもキューバ人男性の先生がいたので、その「さわり」だけはやってみた。彼らの何でもないように滑らかに動く腰、自然に音楽にあわせて刻むステップ、いつか自分もできるようになるかしら・・・

が!!見るとやるでは大違い。全然できない。

練習して少しは様になってきたかなと思っても、踊りながら我ながらいけてないことがわかって赤面する。キューバ人たちが「別に練習するわけじゃない。」と言う通り、これはもう頑張ってできるものではなくあくまで何でもないように、自然にできてしまうものなのだ。

だから、ハマる前にやめた。

それでも元々キューバ音楽が好きでキューバへ来て、キューバで暮らし、キューバ人たちと一緒にサルサのライブへ行く機会もあるので、そういう時には何となくそれらしい感じで身体を動かしてみる。たとえうまく踊れなくても・・・

屋外ライブに行く
たまにはカサ・デ・ラ・ムシカにも行く

ところでコロナの影響でライブもフィエスタ=パーティーもなく、もちろんサルサ教室も閉まっているのだけれど、これからwithコロナの時代にサルサダンスはどうなるんだろう?マスクして踊る??

サルサだけじゃなくタンゴも社交ダンスも、濃厚密着必須のダンスたちの未来がふと心配になった。

キューバの二つの通貨:いよいよ実現?通貨統一

最近、Unificación monetaria ウニフィカシオン・モネタリアという耳慣れない言葉をよく見聞きする。

Unificación monetaria=通貨統一

キューバには現状2種類の通貨が流通している。いずれも単位はpesoペソなのだが、peso cubanoペソクバーノ=キューバペソとかmoneda nacionalモネータナシオナル=国家通貨と呼ばれる本体の国の通貨CUPと、peso convertible 兌換ペソのCUCだ。1994年にCUCが生まれた背景にはソ連崩壊後にキューバを襲ったPeríodo especial(特別期間)と呼ばれる経済危機があるのだがこの辺の事情を話すと長くなるので省略、とにかくここ25年ほどキューバにはCUPとCUCの2種類の通貨が流通しているのだ。現在の一般レートは25CUP=1CUC=1USD(両替時には手数料がかかるので24CUP=1CUC=0.97USD)で固定されている。

CUP:右、CUC:左、それぞれの紙幣。CUPは単色刷りで人物は全身像、CUCは多色刷りで人物は顔の肖像というデザインの違い。

元々はCUPで売買するもの、CUCで売買するものが分かれていて扱う店や場所も異なっていた。むちゃくちゃ大雑把にいうと、人として最低限の生活を維持するために必要なもの、つまり配給品を含む食料品や日用雑貨、新聞、書籍、医療品それから施設や博物館などの入場料はCUP、電化製品などの贅沢品、輸入食材や衣料などなくても生きていけるものおよび外国人へのサービスはCUCという区分ができるかもしれない。でもトイレットペーパー(なくても新聞紙で代用できるから?)や洗濯用洗剤(配給品の固形石鹸で洗えるから?)は通常CUCショップで販売だし、何れにしてもCUP扱いのものだけで最低限の生活をするのは到底不可能なので、キューバ人も皆、両者を使い分けて買い物をする。

外国人観光客が利用するような宿泊などのサービス料金、レストラン、土産物の料金はCUCを想定して設定してあるので、多くの観光客はCUCしか使う機会がなく二重貨幣を実感することはないだろう。

ハバナ空港の両替所CADECA。2019年末より入国審査後のエリアでCUCの使用が禁止されたことに伴い、出国前の他通貨への両替用に増設された。

が、実際にキューバで暮らしていると2つの通貨を使わざるを得ず、これが実にややこしい。

まずおおよその物価を知って慣れるまでは、各品物の価格表示がCUPなのかCUCなのか判断に困る。丁寧に単位が表記されていることはほとんどないし、口頭で数字だけ聞いた時には「果て、一体どっちだ?」と悩んでしまう。

2014年に公式に多くの場でCUP、CUCどちらでの支払いも可能(1CUC=24CUP)となったが、それ以前から個人商店や闇の売買では両者ごちゃ混ぜで使われており、手持ちの通貨によってはCUCで払ってCUPでお釣りということがしばしば起こる。計算が苦手な者にとっては、もうパニック!で、まんまと何度かお釣りをごまかされたことがある。

CUCはそもそも特別期間の経済危機から脱するための一時的な措置であったそうで、それによる弊害も多々あるため通貨を統一する、というか本来のCUPだけに戻そうという政策が2011年から徐々に進められてきた。これまでも毎年のように「今年こそは・・・」と囁かれたりはしていたが、それがここにきてコロナの影響による経済悪化もあり、一気に加速するんじゃないかという話だ。それが巷で噂のUnificación monetaria=通貨統一。

Illustration by Edilberto Camora, photo by Cubadebate

確かに去年あたりから外貨建て口座開設が許可され外貨建てデビットカードによる電化製品など高額商品の販売に始まり、空港免税店でのCUC使用禁止、今年になって国営飲食店での支払いをCUPに限定とし、7月には外貨建てカード(クレジットカードも含む)のみで販売するスーパーが開店、米ドル両替時の10%課税の廃止とじわじわと具体的な政策が立て続けに実施されている。

いよいよCUCがなくなる。

ややこしいやり取りがなくなるのはありがたいけれど、果たしてどうやって移行するのか、今持っているCUC現金や預金はどうなるのか?そういった現実的な問題に対して、先走った噂が普段以上のスピードで流れ出し、10月1日には対CUPのレートが変わるからCUCはすぐにCUPに両替したほうがいいだの、いや預金のレートは変わらないだの、今年中に統一が完了するだの・・・

これに対し国立銀行はそうした情報は間違っていて、さすがに事前告知もなく「はい、明日からCUC使えません。」はないと発表したが、何れにしても2021年中にはUnificación monetaria=通貨統一を完了する模様。今後、聞きなれない経済用語に悩まされながらニュースを気にしていくことにしよう。

Malecón habaneroマレコン・アバネーロ:ハバナのマレコン

ハバナで一番ハバナにいることを実感させる場所はマレコンだ。

ハバナをしばらく離れた後にマレコンへ行って変わらぬ景色を見ると、「あーハバナへ帰ってきた!」と思わずその場で深呼吸して空気を確かめたくなる。

ハバナのマレコンは沿岸部の浸水被害を防ぐための防波堤として1901年に旧市街ハバナ湾口にあるプンタ要塞から始まり、その後3〜4期に分けて建設され1958年に西端のアルメンダーレス河口までの全長約8kmが完成した。ほぼ同時期にハバナ湾の海底トンネルとマレコン沿の道路も整備されて、ハバナの街の東西を結ぶ幹線道路としての役割も果たすようになる。

プンタ要塞近く、1901年の建設を示すプレート。アメリカ政権下にあった時代を示すUSAの文字。

もちろん今でもマレコンは本来の海水の侵入を防ぐ目的を果たしてはいるが、ハリケーンや冬場の低気圧通過時に起こる高波は、軽々とその堤を乗り越えて海沿いの道へバッシャバッシャと入ってくる。道路までザッパーンと大量の水が流れ込んでくるレベルだと即通行止めとなってしまうのだけど、多少歩道を濡らすぐらいならばそのまま通行可能であるので、波飛沫を浴びながらマレコン沿いを散歩したりクラシックカーに乗ってドライブしたりできてしまう。そのダイナミックな光景を見ると地元民でも興奮する。

マレコン沿の建物は海風に吹かれて浸食が激しい

ハバナのマレコンは「世界で最も長いベンチ」とも言われるように、人々がその海際の堤に腰掛けて集う場所でもある。日中は暑いので観光客が写真を撮りながら散策するのを見る程度だが、夕方になると何処からともなく人が現れて、夜が更けるまで大勢の人がマレコンで過ごす。夏場や週末には、より多くの人々が集まる。夕涼みがてら「マレコンベンチ」に座って語らうカップルや仲間たち、片手にビールやラム酒のボトルは欠かせない。おしゃべりに夢中な大人たちの側で子供達は駆け回り、手押し車で売り歩く駄菓子やかき氷をねだって大声をあげる。楽器を持った流しのバンドは観光客からのチップが目的かもしれないけれど、ノリの良いラテンのリズムが愉しい気分が盛り上がり、その場で踊り始める人もいる。マレコンはノーチャージの屋外バーとなり、ライブも聞ける絶好の社交の場と化す。これほどキューバにいることを感じさせる場所はやっぱりない。

マレコンに集まる人々
マレコンを会場に行われるイベントもある、写真は2019年のハバナビエナール

かつては泳ぐこともできたので、マレコンから飛び込む少年の写真をどこかで見たことがあるかもしれない。が、現在遊泳は禁止。

でも釣りはOK。

海のコンディションが良ければ、マレコンの堤防上に立って釣り糸を下げる人々が朝から夜まで見られる。当然だけど釣れるポイントというのがあるらしく、何箇所かに人が集中する。釣った魚はもちろん「食用」なので、彼らの多くは大真面目に獲物を狙っている。キューバでは絶対に手に入らない立派な釣り具を持っている人もいれば、いろんなパーツをつなぎ合わせたキューバお得意のinventoインベント=デッチ上げの竿を手に大物を釣り上げる人、竿はなく釣り糸をそのまま海に放り込んでひたすら待つ人・・・うまくいけば鯛やカツオ、時にはマグロだって釣れるらしい。

キューバで釣りといえばヘミングウェイが有名だけれど、ハバナのマレコンで釣りをすれば「老人と海」の舞台となったハバナ沖の海を見て老人が見たのと同じ夕日が見られる。ハバナの旅の思い出にマレコンで釣りもいいかもしれない。

プンタ要塞付近からの夕日

ともかくハバナのマレコン、ハバナ滞在の折には時間を見つけて足を運んでもらいたい。24時間可、但し天候やマラソンなどの理由による通行止時を除く。

2020 Marabana マラバナ、ハバナマラソンはバーチャルで

コロナの影響で世界中様々なスポーツイベントが中止、延期となったり、これまでと違った形で開催されたりしているようだ。スポーツが盛んなキューバでは年間通して様々なスポーツの大会やイベントがあるのだが、今年4月以降は軒並み中止となってしまっている。そんな中、国技ともいえる野球の国内リーグSerie Nacionalセリエナシオナルは通常より1ヶ月遅れて9月12日に開幕することが決定したのは野球ファンだけでなく、コロナ禍にあって明るいニュースだ。

キューバ国内で毎年行われる国際的なスポーツイベントもいくつかあるが、先日その中のひとつハバナマラソン大会が今年は11月22日にバーチャルで行われると発表された。

「バーチャルマラバナ11月22日」と新聞記事で(8月29日グランマ新聞)

毎年、世界中からの参加がある大会なので、コロナが収束して初めてキューバで行われる国際イベントとして盛り上がればいいな、と期待していただけに残念・・・すでに大会参加登録をしている外国人ランナーもおり、現時点で22ヶ国からバーチャル大会に参加希望の意向を示しているそうだ。当日は午前9時にスタート、その時のコロナの状況に従って国内参加者はハバナでなくても各地で個人参加でき、同時に海外からの参加も可能とのことだった。詳細は後日発表されるそうだが、果てバーチャルマラソンってどうやって成立するんだろう?

調べてみるとコロナの影響で世界中のランナーたちが大会に参加できなくなったことで、すでにあちこちで、様々な形でオンラインマラソンだの、デジタルマラソンだの、バーチャルマラソンだのと行われているらしいことがわかった。もちろんそれ用のアプリなんかも開発されているのだろう。

マラソン大会参加までリモートとは・・・

走ることにハマったことのない者にとっては、「走らずにはいられない」人達の気持ちがイマイチわからないのだけれど、単純に運動不足解消のためには団地の中をグルグル走るのも悪くないかな(と思うだけ・・・)。

Marabanaマラバナ:ハバナマラソン大会
毎年11月スポーツの日とハバナの創立記念日(11月16日)を祝して行われる国際マラソン大会。通常ハバナ創立記念日の16日前後の日曜開催。5km、10km、ハーフ、フルマラソンの各カテゴリー男女別、スタートは全員一斉。

2019年の大会、大会前日プレイベントの様子

昨年2019年はハバナ創立500年の記念大会で、雨の中5858名が参加(内外国人選手は1300名)した。2018年にはアメリカ人俳優ウィル・スミスが走ったことが話題となった。コースはハバナ旧市街のカピトリオか中央公園前あたりがスタートとゴール、まずは海を横目にマレコン通りを新市街方面へ行き、ベダード地区を南下してスポーツ総合公園あたりから折り返して旧市街方面へ戻る、これ1周でハーフ(約21km)の距離。普段街中を走るキューバ人をあまり見かけないのだけれど、意外にランナーは多く、ハバナ市内でも頻繁にマラソン大会が行われている。

Marabana オフィシャルサイトより

Marabana オフィシャルサイト:https://www.maratondelahabana.com/
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