Día de Educadores:教育者の日

キューバの公式な祝祭日は少ない(年間6日前後)が、毎日のように「今日は何々の日」といった具合に国際的な日含めて記念日が多い。

そして12月22日は「Día de Educadores=教育者の日」

先生たちに感謝しましょう、という日だ。国民の教育はキューバ革命の重要な柱、1959年に革命軍が勝利してすぐに着手した政策のひとつがCampaña de Alfabetización=識字運動。革命前は貧困層の子供たちは学校へ行くことができず、特に地方の農業従事者などの多くは読み書きができなかった。革命後、政府は国民教育のためにまずは識字率の上昇が必要とし、キューバ全土で大々的な運動を展開した。小中学校を増設し全ての子供たちが学校教育を受ける体制を整えたのはもちろん、大人たちのため教師を地方の農村や山間部の集落にまで派遣し、読み書きを集中的に教えた。これによって2年ほどでキューバの識字率は96%にまでアップした。そしてフィデル・カストロがキャンペーンの成功を宣言したのが1961年12月22日。このことから12月22日が「教育者の日」となり、毎年教育従事者の労をねぎらうようになったのだ。

1961年12月22日、識字運動の成功宣言をするフィデル photo by EcuRed

現在この日は学校では色々なアクティビティーがあり、生徒たちは先生に感謝の意を示す。その感謝の意の示し方が少々悩ましい。というのも、いつ頃からの習慣か知らないが小中学校では生徒が、正確にいうと生徒の保護者が、先生にプレゼントを贈ることになっている。子供の担任の先生、授業担当の先生のほか、事務室の先生にまで「ちょっとした贈り物」を準備しなければならない。小学校の場合、女性の先生がほとんどなので実用的なシャンプーや石鹸、香水から、ハンカチやポーチなどの小物といったものを送る。この日が近づくと先生の贈り物用のこうした品物が店に多く並び、街中で売られていたりして一大イベントだ。先生たちもこれを楽しみにしていて、この日は朝からニコニコ嬉しそうに教室の机の上を綺麗にして贈り物が届くのを待っている。こうやって書くといやらしいが、教師の給与は決して高くもなく決して待遇も良くない。そんな先生たちのモチベーションアップのために欠かせない習慣だと、最初の年に説明された。

時々日本語を教える近所の子供からもらったプレゼント、グラシアス!

了解。でもなぜ悩ましかというと、物不足のキューバで贈って嬉しい品物がほとんど存在しないからだ。それにキューバ人的プレゼントのセンスがイマイチ理解できない。だから、ごめんなさい、私にはできませんと先生の日のプレゼント準備は夫に任せることにしている。

通常だとこの日が年末年始休み前の最終日となり、保護者も出席して先生を囲んで軽食をとってチャンチャンと終わるのだけど、今年の12月22日は違った。コロナの影響で7ヶ月の長期休暇のあと2ヶ月遅れで新年度が始まったわけで、さすがに貴重な授業日を減らすわけにもいかず、12月24日まで通常授業で「先生の日」のアクティビティーもなし。もちろんこの日は大事な「教育者の日」ではあるので各地で色々な行事が行われたり、個人的に先生へ「ありがとう」を言ったりはしただろうけれど例年の盛り上がりはなく、先生へのあからさまなプレゼント贈呈も少なくともウチの子供の学校では見られなかった。

先生たちには申し訳ないけれど、コロナ禍で物不足+通貨統合政策で物価の上昇と何かと厳しい今日この頃、先生も保護者たちも残念ではあるけど仕方ないと思っていることだろう。

でも感謝の気持ちは贈りましょ。Gracias, maestra!! 先生、ありがとう。

キューバの二つの通貨:いよいよ統一へ

キューバに2種類の通貨が流通して、それが近々ひとつに統合される予定だ。という話を少し前に書いた。それがついに現実となる日が決まった。

Unificación monetaria:ウニフィカシオン・モネタリア、通貨統一 Photo by Cubadebate

先週10日、当日朝から「今日の夜のニュースの終了時、国民が大いに関心を持っている事項について重大な発表がある」とあちこちで告知され、ついにXデーがくるのか、はたまた別に何か事件でもあったか、と様々な憶測が飛び交った。普段ならば夜のニュースの前にある報道番組で政策関連のニュースが発表されることが多いのに、ニュース終了時まで引っ張るあたりに何やらただ事ではない重大さが読み取れた。

おかげでニュースを最初から最後までしっかり見て、結局ニュース時間内には「重大発表」はされず、ニュースが終わった直後の「今夜の番組」もいつも通りにあって、その後パシャっと不自然に画面が変わって特別番組が始まった。そして司会者の簡単なアナウンスの後、ディアス・カネル大統領自らが声明を読み上げた。

「2021年1月1日、通貨統一のための関連改革を開始する。」

いや、意外に予想通りでホッとした。

この日は具体的な実施日のほか、1USD=24CUP(キューバペソ)を唯一のレートとすること、同日から180日後にCUC(兌換ペソ)の流通を停止してCUPのみとすること、この期間に個人所有のCUCは銀行や両替所でCUPに両替することができることなどが発表され、関連する具体的な政策は順次発表していくとのことだった。

すでに銀行やATMはいつも以上の行列・・・

通貨統一と同時に行われる改革の目玉は、給与の引き上げとそれに伴う公共料金などの引き上げ、である。社会主義国であるキューバは近年個人経営者が増えてきたとはいえ、基本的には皆公務員で国からお給料をもらっている形なので、国が定める賃金が人々の収入となり、公共料金だけでなくあらゆるものの値段は基本的に国が決める。ここ数年で一部の職種の賃金引き上げが実施されてはきたものの、今回はそれをすべての職種、労働者対象に行う。いったいどのくらい上がるのか?

ざっくり全部5倍になるらしい。

給与は5倍になるが、電気も水もガスも5倍、バス代も5倍、配給品の価格も5倍に値上がりする・・・と言っても何もかもが5倍になるわけではなくて、基本的にはこれまでCUP表示で売られていたものの料金が上がる。

電気代も5倍に。節電必須?!近所のおばちゃんは「電気つけずに化粧しなきゃ」とすでにネタにしていた。

CUC表示の高価な電化製品、インターネット・携帯電話代金などは価格の見直しはあるかもしれないが、そのまま×24=CUPで支払いとなる(はず)。ちなみに新しい最低賃金は週44時間労働者で月給2100CUP(=87.5USD、約9500円。これまではこの1/5、2000円弱)、公共料金や配給品の価格がいくら最低限に抑えられていて医療費と教育費が無償でも、トイレットペーパー4巻160円、サラダ油1リットル220円、スニーカー5000円、冷蔵庫10万円ではどう考えてもお給料だけではやっていけない現実があるのだけれど、その辺の矛盾はさておいての経済改革。

そんなわけで先週以降、ニュースや報道関連番組、特別番組でこうした政策や改革内容が発表され続けている。

新聞に掲載された料金リスト、食料品や日用雑貨は料金据え置きのものも多い。ガソリン料金も変わらずレギュラー1リットルで1ドル相当

怒涛の情報の嵐・・・

これまでも通貨統一に伴う関連経済改革の概要や方針はすでに知らされてはいたものの、ここにきて発表されるのは数字を伴う実に細かい具体的なもの。ついていけない情報量でごまかされている気がするのは、私が外国人だからというだけではないだろう。全てを把握する必要はないけれど、生活に直接関わる内容も多いので気になるし実際に知らないと困ることも出てくるに違いない。そして何より心配なのはこれらがすべてうまいこと2021年1月1日から機能するのか、ということだ。だいたい何か新しいことを始めようとすると、準備不足や見通しの甘さが露呈してコケたり、パンクしたりすることが多いこの国。コロナ禍がまだまだ続く中、年明け早々どうなることか・・・

さあ、2021年どこへ行くキューバ?!

12月、キューバの師走

12月になってしまった。

世界中がコロナであまりに多くのことが変わってしまい、受け入れざるを得ない変化を否応無く受け入れて、慣れるも慣れないもなくここまで一気に来てしまった感じがする。1年を振り返るのはもう少し先にして、12月のキューバの様子。

1日、月が変わるのを知っているかのように天気が「冬」になった。1ヶ月ほど前から朝晩の気温が下がって(といっても最高気温が30度を切り最低気温が22〜23度)、随分過ごしやすくなっていたが、30日の夕方から風向きが急に変わって夜には強い風が吹き始めた。そして翌朝はどんより曇った空に冷たい風が吹き荒れている。

これがキューバの冬。

Frente fríoいわゆる寒冷前線が接近して気温がぐっと下がることがこれからの季節、月に何度かある。今回はまだ12月の初めということでそれほど気温は下がっていないけれど、風もあってより「涼しく」感じる。だが決して「寒く」はない。でも亜熱帯の気候に慣れているキューバ人にとってはもう冬の到来、早速久しぶりの長袖と長ズボンを出してきてしっかり防寒して外出している。普段はしない重ね着をして数少ない冬服を無理やり合わせているのがチグハグだったり、妙に大袈裟だったりするので、キューバ人の冬コーデにはクスッとしてしまう。

気温が下がったこの日、長袖を着た人が目立つ

この時期になると、多くの国や地域でクリスマスのデコレーションが街を賑やかにしているはずだけれど、コロナ禍で今年はどんな感じなんだろう。キューバはかつてスペイン植民地だったこともありカトリック教徒が多いとされるが、他の中南米諸国と比較すると宗教色は薄くてカトリックの習慣が生活の中に浸透しているのを実感することがほとんどない。

その証拠にクリスマスが盛り上がらない・・・

最近は観光客向けにホテルやレストランの飾り付けも派手になってはきたけれど、ウキウキワクワク、クリスマス気分が高まるほどではない。ましてやコロナの影響で観光客がまだほとんどいない今年は、より寂しいものになりそうだ。

我が家の近所の売店、クリスマス&年末向けのペイントに。62の数字は革命勝利から62年を示す。キューバでは1月1日は革命勝利の日でもある

普段からイマイチのクリスマスだけれど、クリスマスの後にやってくる大晦日から新年を迎える時は大いに盛り上がる。家族や友人たちで集まり遅い夕食をとって、年が替わる瞬間を皆で一緒に迎えるのだ。もちろんこの日はご馳走で、キューバ人が大好きな豚の大きな塊肉をガッツリ食べて、ビールやラム酒を飲んでFiestaフィエスタ=パーティー!

でも今年はコロナの影響もあって「密」になる集まりは控えなきゃならないし、何よりも市場に豚肉がない。キューバ人のお腹を満たすだけの豚がどう見ても足りない。ビールも長いこと店で売っているのを見たことがない。

今年は犠牲になる豚も少ない?!

でもきっとどんな逆境にも打ち勝つ強さとユーモアを持ったキューバ人。得意のinventoインベント=発明・でっち上げをして、このあまりに特殊で異常な1年の締めくくりをしてくれるんじゃないか、と楽しみにしている。

あれから4年、フィデル・カストロの命日

11月25日、フィデル・カストロが逝ってからちょうど4年。朝からテレビは生前のフィデルや関連行事の映像が多く流れた。これまでにも何度か書いたように、キューバではスペインからの独立やキューバ革命に貢献した英雄たちの誕生日や命日をとても大事にする。偉人がキューバ史に残した功績を称えて、後世に伝えようとする意識が(政治的な意図もあってだろうが)、日本よりずっと高い。フィデルに関しては誕生日や命日でなくても言及されない日はない。ここ数日はその度合いが増して、特に若い世代に語られるような内容の記事や報道が目立つように思う。

グランマ新聞の1面下段に毎日出るフィデルの言葉。過去の言葉だが時事ネタ関連のものが多く、グッときたりホーッと感心したりすることもしばしば

4年前。すでにキューバに暮らしていたのだが、フィデルの訃報は夫の共産党関連機関で働く友人からほぼリアルタイムで入った。すでにベッドの中にいて「ふーん・・・」と返す言葉もなくそのまま寝てしまった覚えがある。翌日から国中が喪に服して、数日間TVの通常番組は放映されず、いつも街中に流れる賑やかな音楽が消えた。2日間に渡って行われた「お別れの式典」では、会場となった革命広場が内外からの参列者のほか多くの一般の人で埋め尽くされた。ハバナでのお別れを終えて火葬されたフィデルの遺灰は、多くの人に付き添われCaravanaキャラバンとなってサンティアゴ・デ・クーバへ向かった。1959年1月キューバ革命軍が勝利を収め、サンティアゴから1週間かけて各地で勝利宣言をしながらハバナへ向かった同じ道を、今度はハバナから全国民に最後の別れを告げながら永眠の地として自ら選んだサンティアゴまで進んだ。フィデルはサンタ・イフィヘニア墓地内、彼が師と仰ぐキューバの英雄ホセ・マルティの霊廟のすぐそばで眠っている。

Santa Ifigeniaサンタ・イフィヘニア墓地フィデルの墓 Photo by EcuRed

4年前。フィデルが亡くなった時にもっと大きく何かが変わるのではないか、と多くの人は思っていたかもしれない。でもキューバは、国としても国民一人一人としても、もうその随分前から準備ができていて、その日がついにやって来ても落ち着いて静かに迎え、受け入れていた。ケーブルテレビなどで映し出されたマイアミの反革命支持者らのお祭り騒ぎとは対照的な街の様子が印象に残っている。そして街に溢れた「Yo soy Fidel 私はフィデル」の文字。フィデルは肉体的に亡くなってしまっても、国民の一人一人の中にその精神は行きている、誰もがフィデルとなり得るのだ、と。

25日の晩、ハバナ大学で行われた式典にて Photo: Abel Padrón Padilla/ Cubadebate

あれから4年。本人の遺言にあった通りにフィデル像も、フィデルを名乗るモニュメントも作られてはいない。国の象徴として掲げられることはなくても、やはりキューバは良くも悪くもフィデルあってのキューバだ。政治的なことは抜きにして、近現代史上、これほどまでにカリスマ性の高い指導者はいなかったし、これから先も出ないだろうと思う。多くを知らずに評価することはしたくないし、どう表現したらいいのか分からないのだけれど、その生き様や残した言葉に惹かれる。

”Serenidad” (2010) Photo: Roberto Chile/ by Granma

これから先、1年後、2年後、10年後とキューバの中でフィデルの存在感はどう変わっていくのだろう?ふと誕生日や命日の扱い方にそれが反映するのでは、と思った。

Habana 501 Aniversario: ハバナ創立501年

11月16日はハバナの創立記念日だった。ハバナの街が創られたのは1519年、去年がちょうど500年の記念の年だったので、何かにつけて500年を冠にしてお祝いしたり記念事業が行われたりして、街中に500の数字が目立った。今でもまだあちこちにその500が残っていたりする。

今年もハバナの誕生日11月16日が近づいて、ハバナ旧市街を歩いていたら500年記念事業で始まったホテルの建築現場や修復中の建物の囲いに付けられた看板が501年バージョンのものに付け替えられているのに気がついた。今年は7月末に偉大なHistoriador de la Habanaハバナ史家であるEusebio Lealエウセビオ・レアル氏が亡くなって、彼の功績へ敬意を表してということだろう、写真と市民の思いを伝えるような言葉が添えられていた

旧市街、ハバナ501年アニバーサリーの看板

このエウセビオ・レアル氏、ハバナ旧市街出身で若くして政府公認の歴史家とでも言ったらいいのだろうかHistoriador de la Habanaハバナの史家となって、ハバナだけでなくキューバ中の歴史を知り尽くし、歴史だけでなくあらゆることにその豊富な知識で言及できる生き字引といえる方だった。職場も旧市街の中に持ち、建物の修復現場に出向いて指示を出し、旧市街を歩いて市民と親しく語り合う姿もよく見られたといい、その人柄もとても素晴らしかったと察する。その語り口や文章にも彼の性格といかにハバナをキューバを愛しているかが伝わってきて、個人的にすごいファンだった。使われる言葉が簡潔で聞き取りやすい話し方、スペイン語が完璧に分からなくてもテレビなどで話すのを見てもじーっと聞き入ってしまうほど。いつか彼の講義や講演を生で聞きたい、と思っていたのに叶わなかった。残念・・・

Eusebio Lealエウセビオ・レアル氏 photo:Cubadebate, by Néstor Martí
昨年ハバナ創立500年に合わせて完全修復されたカピトリオ、この修復にもEusebio氏は多大な貢献をした。

そのエウセビオ・レアル氏が愛して止まなかったハバナの創立記念日、なんだかんだでここ数年この日は旧市街を訪れている。旧市街で行われるイベントで有名なのはアルマス広場のEl Templete テンプレーテの建物の横にあるセイバの木を回る習慣だ。

実はこのセイバの木が重要な意味をもつ。ハバナがつくられた時、スペインからやってきた征服者達が初めてカトリックのミサを行ったのがこのセイバの木の下だった。当時はまだこの辺りに原住民の人たち(コロンブス上陸後、半世紀ほどで原住民は絶滅)が暮らしていて、その部族の酋長Habaguanexハバグアネクスもこのミサに参加した。そしてHabanaハバナの名は、その酋長の名前からが付けられた・・・だからこの場所がハバナ創立と深く関わっているというわけだ。なお、テンプレーテの建物は1828年に建てられたもので、この中には先のセイバの木の下で行われたミサの様子が描かれた絵画(フランス人画家Jean Baptiste Vermay作)が奉納されており、開館時には中に入ってこの絵を見ることができる。

エウセビオ・レアル氏によると17世紀ごろから、ハバナの創立記念日にこのセイバの木を回る習慣が始まり現在まで残っているとのこと。毎年市民は11月16日にセイバの木に触れながら、3回周ってお願い事をして左肩越しに小銭を木に向かって投げる。当日は夜中の0時から24時間解放されて日中は長い行列ができるというのが毎年恒例だ。

いつもは遠巻きに見ることしかできなかったのが、今年はすぐ近くまで行って、皆が実際にセイバの木に触ってグルグル周っている様子を見ることができた。

だが今年はコロナの影響もあって午前中に行列はほとんどなし、テンプレーテの敷地を囲む柵の前にほんの十数人が並んでいただけだった。オビスポ通りの商店には食料や日用品を求める人が密になって長い行列を作っているというのに、なんだか少し寂しいハバナの501歳誕生日。来年502歳はもっとたくさんの人がこの日を想い出してくれるような世の中になっていますように。

キューバのコロナによる規制緩和:ハバナ空港再開

ハバナの学校が再開されて1週間、大人たちも含めてやっと日常に近づいたな、と思っていたら週末に熱帯低気圧エタがキューバを縦断、ハバナも週明け9日は休校だった。幸いこの辺りはそれほど荒れることもなかったのだが、中部地方はエタの通過前後に各地で豪雨となって浸水被害で家屋や農耕地に被害が出てしまった。でもいつものように政府主導でしっかり備えがあったので、人的被害はなく早速被災地域の復旧作業が開始されたそう。

中南米はハリケーンエタの通過で大きな被害が出た。その後、勢力が弱まって熱帯低気圧としてキューバへ上陸。

気づけばもう11月も中旬にさしかかる、そろそろハリケーンシーズンも終わり、コロナに翻弄された今年も残すところあと1ヶ月半・・・

そんななか、11月15日0時ハバナ国際空港再開!

先週あたりから、それらしい動きはあったけれど具体的な日付は昨日、11月10日に発表された。キューバでのコロナ感染拡大が始まり3月24日に国境が閉ざされて早8ヶ月近く。すでに他の地域の空港は国際便が発着しているが、やはりハバナの空港が開かないと本当の意味での国境閉鎖解除とはいえない。

それが、やっと!!!

ハバナのホセマルティ国際空港 photo by Cubadebate, Aeropuertos.net

空港は感染予防対策が取られ、海外からの乗客受け入れ準備万端との報道だった。施設面だけでなく予防対策としてフライト利用者=旅行者以外の送迎者などの空港ターミナルへの立ち入り禁止、送迎車両の規制などが行われる。またキューバ入国時に全員のPCR検査を実施、24時間以内に結果通知、長期滞在者は15日後に再度検査して陰性であることが滞在条件となる。そして入国後は政府保健機関が旅行者の健康状態に配慮して、旅行者とキューバ国民すべての人の感染防止に努める。

で、こうした対策・措置をとれば当然コストがかかる。結果、保健管理料?みたいなやつを徴収する予定らしい。空港再開日から実施するらしいが、いくらなのか、旅行者全員なのか、外国人だけか、はたまたキューバ人だけか具体的なことはまだ発表されていない。

今年初めに設置された自動チェックインの機械もやっと役立つ。

新たな日常のためにかかる費用、控え目にお願いしたい・・・

キューバのコロナによる規制緩和:ハバナの学校再開

待ちに待ったこの日が遂にやってきた。

11月2日、学校の再開。

キューバで最初のコロナ感染者が出たのが3月11日。その後国内での感染拡大が始まって国境閉鎖と様々な規制が始まったのが3月24日。あれから7ヶ月ちょっと。途中夏休み期間があったとはいえ、子供達にとっても保護者たちにとっても長すぎる「お休み」がやっと終わり新学期が始まった。

ハバナ市内11月2日朝、登校の様子。Photo:Ismael Francisco, by Cubadebate

本来キューバの新学年は9月に始まる。でも3月末からずーっと感染予防のために学校は閉鎖されていたので、前の学年を修了することができていない。夏休み期間が2ヶ月、試験期間が2週間あるにしても、前学年の丸々2ヶ月半ほどは授業がなかったことになるので、その間の遅れをどうするのか心配していた。ハバナでは7〜8月に感染再拡大があって、学校閉鎖期間が延長されたこともあり当初の予定から二転三転、様々な噂や中途半端な情報が飛び交ったが、結局のところは11月2日から12月4日まで5週間は進級せずに前学年の学習をして、12月7日から晴れて新学年、新入学とすることになった。まあ、それなりの対応をしてくれるらしいのでひと安心。

当然のことだけど学校再開に際してはコロナ感染予防の為、これまでになかった多くの「決まりごと」ができた。登校時間を学年ごとに分けて順次登校とする、給食は食堂に集中しないように1クラスずつ、授業中もマスク着用、朝礼はなし、子供たちは各自石鹸、消毒液、タオル、マスク1日4枚(!)を持参すること、学校内への保護者の立ち入り禁止などなど。

Bolsita de aseo衛生袋と呼bぶ袋に、マスク、石鹸、タオルなどを入れて持っていく

了解、なんでもする。とにかく学校が始まってくれてよかったー!

ウキウキしながら鉛筆を削って教科書とノート準備して、しまってあったリュックを引っ張り出して綺麗に拭いて、遠足の前の日並みに喜ぶ母を横目に「学校イヤー!」と叫ぶ息子。とはいえ、再登校初日の朝は6時にはパっと起き、さっさと制服着替えて登校の準備を始めた。朝食もゆっくりとって、指定された登校時間ぴったりに学校へ。

なんだかんだいって、ちょっとは楽しみにしてたんでしょ?それとも久しぶりすぎて緊張した?ちょっとこわばった笑顔での「行ってきます」だった。

登校時、校門付近で一人ずつ手の消毒をするためにちょっと混雑

ハバナは最近、新規感染者もゼロから一桁で落ち着いており、街の様子も雰囲気も大分以前と変わらないような感じになってきた。これで学校が再開して子供達の制服姿が見られるようになると、「日常」がグッと近くなる。

もう一人のキューバ革命の英雄 Camilo Cienfuegosカミーロ・シエンフエゴス

ハバナを訪れたら必ず立ち寄るPlaza de la Revolución革命広場。この広場に2つの肖像がある。ひとつはあの有名なチェ・ゲバラの肖像。黒の輪郭線だけでキリッとしたチェの表情を見事に表現していてアート作品としても素晴らしいし、その前で写真を撮れば「キューバへ行ってきました!」記念の1枚になること間違いない。

で、もうひとつの肖像はだれか?

同じようなタッチの肖像だが、ヒゲモジャでちょっと虚ろな目、頭には大きな丸い帽子?で、なんだかパッとしない・・・多くの外国人観光客はここでガイドの説明を聞いて初めて彼がどういう人物か知ることと思う。

Camilo Cienfuegosカミーロ・シエンフエゴス

カミーロは、フィデルやチェらとともにキューバ革命戦争を勝利に導いた中心人物のひとりだ。チェは世界的にもその名の知れた革命の英雄であるが、カミーロは国外ではあまり知られていない。というのも、彼は革命軍が勝利した同じ年に乗っていたセスナ機が墜落するという事故によって行方不明、帰らぬ人となったため、革命後に表立って活躍する機会が少なかったから。

写真を見ればわかるが、カミーロはものすごい男前!広場の肖像はちょっと残念・・・

今、革命広場で隣り合っているチェとは、革命軍のシエラマエストラの戦いの同士として、同じコマンダンテ最高司令官まで上り詰めたゲリラ戦士として、互いに尊敬し合い非常に仲が良かったという。二人の性格は対照的で、気難しく物事を理論的に考えて行動するチェに対して、カミーロはとても陽気でおおらかな性格、ゲリラ戦では常に前衛部隊に属した。そこからきている彼を表すフレーズのひとつが、El Señor de la Vanguardia 前衛のセニョール。最前線をいけいけドンドンで突っ走るタイプだったわけだ。他にもEl Héroe de Yaguajayヤグアハイの英雄。これはカミーロが革命戦争最終段階で、中部ヤグアハイの戦いを最高司令官として率いて勝利したことが、チェの率いたサンタクララの戦いと並んで政府軍打倒に大きく貢献したことに由来する。それからEl Héroe del Sombrero Alónアローン帽のヒーロー。チェは星印のベレー帽を愛用していたが、カミーロはいつも大きな丸い鍔のアローン帽と呼ばれる帽子をかぶっていた。そう、革命広場のカミーロ像の頭にあるのは彼のシンボルでもある帽子を表しているのだ。確かに写真で見る彼はいつもアローン帽を被りクシャクシャの笑顔で笑っている。

ヒゲとアローン帽がトレードマークだったカミーロ。photo by Granma

アルゼンチン人であるチェ、裕福な家庭に育ったカストロ兄弟と比較するとスペインからの移民を両親にもちハバナの決して裕福とは言えない環境で育ったカミーロはより近く感じられたのだろう、El Comandante del Pueblo国民の最高司令官とも言われ、とにかくキューバ国民からの人気はとても高い。

フィデルともとても硬い信頼関係で結ばれていた。カミーロはメキシコで間もなくキューバへ向け出発するというフィデルたちに出会い、一番最後にグランマ号に乗るメンバーに選ばれた。ゲリラ戦に備えた訓練もまともに受けないまま革命軍のメンバーとなり、キューバに乗り込んで戦いを重ねるごとにその才能を発揮しフィデルの信頼を得て最終的には最高司令官にまで昇格し、いつもフィデルの隣にいる存在となった。

チェ、フィデル、カミーロ。photo by Granma

革命広場の肖像の下にある言葉Vas bien, Fidel「フィデル、お前はよくやってるよ。」は、彼らの信頼関係を示す言葉だ。時にフィデルが、カミーロに向かってVoy bien, Camilo?「カミーロ、自分はちゃんとやってるだろうか?」と尋ねた時の返事だ。フィデルほどの人物が自分の行動について確認するほどの相手、それがカミーロだったのだ。このことについてはチェも、「Voy bienというフィデルの言葉は彼の完全なる信頼に値する人物に対して向けられた。他の誰でもない、彼の中に絶対的な信頼を感じていた。」と語っている。

そのカミーロが27歳の若さでこの世を去ったのが、ちょうど61年前の10月28日だ。

今年はコロナの影響でハバナではまだ学校も始まっておらず、学校などでまとまって献花しに行くことはなかった。photo by Granma

この日、キューバ国民は花を持って海に向かう。海がない地方に住む人達は川へ向かう。そして一人一人が花を海に、川に向かって投げてカミーロを想う。セスナ機ごと海に落ちて見つかることのなかった彼の亡骸に花を捧げるのだ。これを毎年欠かさず続けるキューバ人。革命がどうとか、思想がどうとか関係なくいいな、と想う。

我が家のある団地はその名も「カミーロ・シエンフエゴス」。団地内のカミーロの像、命日の夕方、数本の花が置かれていた。

休日の農家訪問

キューバ人はあまり野菜を食べない。海に囲まれた島国なのに魚介よりも肉を好む肉食の人たちだ。普段の食生活で野菜はあくまで付け合わせであったり、スープの具だったり、味付けのための調味料であったりして、野菜をがっつり食べるというのはほとんどない。

それなのにキューバの有機野菜は世界的にも有名だ。

これは1990年代、ソ連崩壊の影響でキューバの経済状態がドン底に落ちたPeriod Especialペリオド・エスペシアル(特別期間)に、燃料、肥料、農薬などあらゆるが不足し、農業のやり方を変えざるを得なかったことによる苦肉の策によるもの。燃料がなくて農機具が使えないから牛馬を使って畑を耕し、肥料は家畜の糞や残飯から作り、農薬はないから使わない、仕方なく無農薬有機農法を取り入れるしかなかったのだ。また輸入に頼らず食料の自給を目的に、街中や都市近郊に小さな農園が登場したのも同じ時期だ。そのお陰で国民の食生活が救われただけでなく、世界的にも有名なオーガニック大国となった。手の掛かる高価な有機野菜をわざわざ探さなくても、キューバ人は安全で美味しい野菜が手に入るしそれを食べるしか選択肢はない。なーんて羨ましい話だ!と思うのにキューバ人は野菜を好んで食べない、残念・・・

セントロハバナにある市場。見た目は悪いけれど美味しい野菜たち

ただ生産調整がうまくできておらず、ハウス栽培もないから、旬のものができただけ出荷されるので、どこへ行っても同じ野菜しかなかったり、当たり前だけど旬のものしか食べられなかったりする。

それに加えてコロナの影響もあってここ数ヶ月野菜の流通も滞り気味で、ハバナでは本当に野菜が手に入りにくい状態が続いていた。だがありがたいことに我が家の近所の歩いて行ける距離に小規模な農園がいくつかあって、直接出向いて野菜を手に入れることができる。交通機関が制限されてあちこち探して買いに行くことができなかった間も、夫がせっせと近所の農家へ通い農家のおじさんと仲良くなってくれたおかげで、新鮮な野菜を食べることができた。

外出規制も緩和された先週の日曜、その農園へ家族みんなで出かけた。今、野菜は少なく畑にあるのはバナナと Habichuelaアビチュエラ(日本でササゲの名で見られる長いインゲン豆の類)ぐらい。畑といっても雑草は生え放題で、一体どれが植えられた野菜の苗なのかわからない状態。その中を夫は自分の仕事と言わんばかりにとっと入っていき、次々にアビチュエラを収穫していく。息子も端っこの方に残っていたものをボチボチ採って楽しむ。

一見、畑とは思えないけれど・・・

隣に植えられていたトマトや他の葉物野菜はまだ収穫にはしばらくかかりそう。キューバでトマトは冬の野菜。11月から3月ぐらいの限られた時期にしか食べられない。

早く大きくなーれトマトたち!

アボガドの林もあるのだけれど、もう収穫されてしまってほとんど実が残っていない。グアバは収穫しきれずに落ちてしまっているものもあって「あー、もったいない!」と夫は嘆きながら木に残ったグアバの実を採っては次々に袋へ入れていく。

以前はなかった苗床を作るためのビニールハウスができていて、中にはピーマン、トマトなどの小さな苗がずらりと並んでいた。コロナ禍始めた我が家の室内農園?!に植えよう、と苗をいくつかもらって帰った。

ハウスの中の様子。苗は他の農家にも売るそうだ。
本日の収穫?バナナは緑のものをフライなどにして食べる食用、オレンジは苦味のある味付け用、アビチュエラ。グアバはすぐにジャムとシロップ漬けにした。

コロニアルな家の裏庭に大きなマンゴーとアボガドの木。木陰にハンモック吊るしてお昼寝。それからバナナ、グアバの木も植えて、少しの野菜も育てましょ。そんな庭のある家に住むのが我が家の夢・・・

ハバナクラブとバカルディ

キューバのラム酒メーカーとして有名なのは、何と言ってもHabana Clubハバナクラブ。メジャーな商品は日本の一般的な酒屋でも手に入るし、キューバ旅行の際にはハバナクラブのロゴをラム酒ボトルだけじゃなくて、Tシャツやキーホルダーのデザイン、グラスと色々なところで目にするはず。もちろん旅の途中で口にすることもあるだろうし、お土産として1〜2本買って帰る人も多い。地元の人にも好まれるキング・オブ・キューバンラムだ。

ハバナクラブの商品ラインナップ、このうち日本でもいくつかは比較的簡単に手に入る。
Photo by EcuRed

日本でも輸入物も含めたくさんのラム酒の銘柄が手に入ると思うけれど、最もよく知られているのはバカルディではないだろうか。バカルディがラム酒と知らなくても、「コウモリマークのお酒」といえば分かる人も多いかもしれない。少し前に日本でモヒートブームがあり、その時もバカルディが大々的にモヒートのベースとしてラム酒を宣伝したり、カクテルそのものを飲みきりサイズのボトルで販売していたりしたと聞いた。個人的にはレゲエにはまっていた時期にジャマイカのマイヤーズをよく飲んでいたけれど、コウモリがちょっとイカつい印象のバカルディのボトルもよく目にしていた記憶がある。

バカルディラムでモヒートを・・・の広告。Photo by Amazon.com

実はこのバカルディも元々キューバのラム酒ブランドだ。歴史的にはハバナクラブよりも古く1862年キューバ東部サンティアゴ・デ・クーバで、スペインからの移住者Facundo Bacardíファクンド・バカルディ氏が設立した蒸溜所に始まる。バカルディの品質にこだわって独自の手法で生まれた蒸留酒はキューバで初めての本格的ラム酒として人気を博し、1900年代初頭にはキューバだけでなく世界に知られるようになった。1959年の革命勝利後、企業の国有化が実施された時にはすでに海外に拠点を持っていたこともあり、キューバを去ってプエルトリコ、その後英領バミューダ諸島に本社を移しさらに大きく成長、今では世界最大級のラム酒ブランドとなったというわけだ。

20世紀初頭、キューバにまだバカルディがあった頃の広告。
Photo by バカルディジャパンHP/bacardijapan.com

一方、ハバナクラブは1934年、ハバナの隣の州現在のMatanzasマタンサス州カルデナスでJosé Alechabalaホセ・アレチャバラが設立したラム酒製造会社だ。会社は革命勝利後、国有化され現在にいたり、国を代表するラム酒ブランドとなった。だから今ももちろんハバナクラブはキューバ国営企業。ただし海外市場はフランスのベルノ・リカール社との合弁で設立されたハバナ・クラブ・インターナショナルが担当し、世界中でハバナ・クラブが販売されている。ちなみにアレチャバラ家は革命後スペインを経てアメリカへ移住したのだが、そこでハバナクラブの商標を登録して、一時期バカルディ社からハバナクラブという名の商品を販売していた。その後更新手続きを怠ったとかで商標権が失効してしまい、のちにキューバ政府がアメリカでの登録申請をして一度は認可された。が、本件その後すったもんだがあった末に最近になってやっとアメリカでキューバ政府機関がハバナクラブの商標権を持つことが認められた、という話だ。こんなところにもキューバとアメリカ両国の関係、ここ100年ほどの歴史が反映している。

こうした歴史背景があって現在バカルディ商品はキューバ国内で販売されていないのだが、バカルディ家の残した遺産は見ることができる。発祥の地、サンティアゴにあるバカルディ博物館は初代ファクンド・バカルディ氏の息子、エミリオ・バカルディが市長だった当時、邸宅の一部を博物館として公開したことに始まる。建物も含めてキューバの歴史に関する展示ともにバカルディ家のコレクションなど豊富な資料があり、とても見応えがある。

プラサホテルの裏手すぐ。付近にある他のコロニアル調の建物とは全く違った意匠で目立つのですぐに分かる。

ハバナの旧市街には旧バカルディ本社ビルが残っている。1930年キューバで初めて建てられたアール・デコ調のビルで、当時ハバナで一番高い建物でもあった。正面中央の塔のてっぺんにはバカルディ社のシンボルであるコウモリの装飾が施されている。現在は国内外企業の事務所が多く入るオフィスビル。建物としてもとても魅力的なので、旧市街散策中に是非チラッと見て「バカルディはキューバの会社だったんだなあ」と思い出してもらいたい。そしてそのあとはハバナクラブを使ったカクテルをどうぞ!