ハバナクラブとバカルディ

キューバのラム酒メーカーとして有名なのは、何と言ってもHabana Clubハバナクラブ。メジャーな商品は日本の一般的な酒屋でも手に入るし、キューバ旅行の際にはハバナクラブのロゴをラム酒ボトルだけじゃなくて、Tシャツやキーホルダーのデザイン、グラスと色々なところで目にするはず。もちろん旅の途中で口にすることもあるだろうし、お土産として1〜2本買って帰る人も多い。地元の人にも好まれるキング・オブ・キューバンラムだ。

ハバナクラブの商品ラインナップ、このうち日本でもいくつかは比較的簡単に手に入る。
Photo by EcuRed

日本でも輸入物も含めたくさんのラム酒の銘柄が手に入ると思うけれど、最もよく知られているのはバカルディではないだろうか。バカルディがラム酒と知らなくても、「コウモリマークのお酒」といえば分かる人も多いかもしれない。少し前に日本でモヒートブームがあり、その時もバカルディが大々的にモヒートのベースとしてラム酒を宣伝したり、カクテルそのものを飲みきりサイズのボトルで販売していたりしたと聞いた。個人的にはレゲエにはまっていた時期にジャマイカのマイヤーズをよく飲んでいたけれど、コウモリがちょっとイカつい印象のバカルディのボトルもよく目にしていた記憶がある。

バカルディラムでモヒートを・・・の広告。Photo by Amazon.com

実はこのバカルディも元々キューバのラム酒ブランドだ。歴史的にはハバナクラブよりも古く1862年キューバ東部サンティアゴ・デ・クーバで、スペインからの移住者Facundo Bacardíファクンド・バカルディ氏が設立した蒸溜所に始まる。バカルディの品質にこだわって独自の手法で生まれた蒸留酒はキューバで初めての本格的ラム酒として人気を博し、1900年代初頭にはキューバだけでなく世界に知られるようになった。1959年の革命勝利後、企業の国有化が実施された時にはすでに海外に拠点を持っていたこともあり、キューバを去ってプエルトリコ、その後英領バミューダ諸島に本社を移しさらに大きく成長、今では世界最大級のラム酒ブランドとなったというわけだ。

20世紀初頭、キューバにまだバカルディがあった頃の広告。
Photo by バカルディジャパンHP/bacardijapan.com

一方、ハバナクラブは1934年、ハバナの隣の州現在のMatanzasマタンサス州カルデナスでJosé Alechabalaホセ・アレチャバラが設立したラム酒製造会社だ。会社は革命勝利後、国有化され現在にいたり、国を代表するラム酒ブランドとなった。だから今ももちろんハバナクラブはキューバ国営企業。ただし海外市場はフランスのベルノ・リカール社との合弁で設立されたハバナ・クラブ・インターナショナルが担当し、世界中でハバナ・クラブが販売されている。ちなみにアレチャバラ家は革命後スペインを経てアメリカへ移住したのだが、そこでハバナクラブの商標を登録して、一時期バカルディ社からハバナクラブという名の商品を販売していた。その後更新手続きを怠ったとかで商標権が失効してしまい、のちにキューバ政府がアメリカでの登録申請をして一度は認可された。が、本件その後すったもんだがあった末に最近になってやっとアメリカでキューバ政府機関がハバナクラブの商標権を持つことが認められた、という話だ。こんなところにもキューバとアメリカ両国の関係、ここ100年ほどの歴史が反映している。

こうした歴史背景があって現在バカルディ商品はキューバ国内で販売されていないのだが、バカルディ家の残した遺産は見ることができる。発祥の地、サンティアゴにあるバカルディ博物館は初代ファクンド・バカルディ氏の息子、エミリオ・バカルディが市長だった当時、邸宅の一部を博物館として公開したことに始まる。建物も含めてキューバの歴史に関する展示ともにバカルディ家のコレクションなど豊富な資料があり、とても見応えがある。

プラサホテルの裏手すぐ。付近にある他のコロニアル調の建物とは全く違った意匠で目立つのですぐに分かる。

ハバナの旧市街には旧バカルディ本社ビルが残っている。1930年キューバで初めて建てられたアール・デコ調のビルで、当時ハバナで一番高い建物でもあった。正面中央の塔のてっぺんにはバカルディ社のシンボルであるコウモリの装飾が施されている。現在は国内外企業の事務所が多く入るオフィスビル。建物としてもとても魅力的なので、旧市街散策中に是非チラッと見て「バカルディはキューバの会社だったんだなあ」と思い出してもらいたい。そしてそのあとはハバナクラブを使ったカクテルをどうぞ!

Dominóドミノ

ドミノといえば日本ではピザやドミノ倒しを思い出すかもしれないが、本来は麻雀と同じような長方形の駒を使って2〜4人で遊ぶテーブルゲームだ。ドミノの駒はそれこそデリバリーピザの箱にもデザインされているし、どんな感じで遊ぶのかは外国映画などで4人がテーブルを囲んでいるのを見て知っているかもしれない。その起源はヨーロッパといわれ、現在は中南米諸国でポピュラーなゲーム、中でもベネズエラ、コロンビア、ドミニカ共和国、プエルトリコ、パナマ、メキシコといったカリブ海域諸国で特に好まれているそうだ。キューバでも子供から大人まで誰も気軽に遊べる、パーティーや休日の午後に欠かせない娯楽といえる。夕方、家の前の道路へテーブルと椅子と持ち出して、上半身裸でラム酒を片手に大声を上げながらドミノをする様子はキューバでおなじみの光景だ。

遊び方はいたって簡単。

ゲームに使う駒の数やルールは色々あって地域によって異るが、キューバで最もポピュラーなのは0/0から6/6の目の28個の駒を使って4人で遊ぶもの。個人で勝負することもあるが、正面に座った人とペアになって勝負した方が盛り上がる。

まずはテーブルに目を下にして駒を撒き散らし、ぐるぐるかき混ぜる。これをなぜだか知らないけれどDar el agua=水をやる、と呼ぶ。

だーれあぐあ〜!

各自7つずつの駒を手元にとる。一番目数の大きな駒6/6(doble seisドブレ・セイス)を持っている人がテーブルに出してスタート。

あとは時計回りに手持ちの駒を捨てていくだけ。最初に出した駒から両側に同じ目の駒を並べてつないでいく。

こんな感じ。ダブルの駒は縦方向に置く

途中、捨てる駒がなかったらパス。

上がりは手持ちの駒が全てなくなるか、テーブルに一種の目が出揃って両側どちらへも続けていくことができなくなった場合。前者の場合は駒を全部捨てることができた人が勝ち、後者の場合は手元に残った駒の目数の合計が少ない人が勝ち。これを得点をつけながら繰り返す。

要はいかに早く手持ちの駒がなくなるか、大きい目数の駒を先に捨てられるか、だけ。

本当にルールは超単純なのだけれど、テーブルに出ている駒の種類をよく観察して誰がどの駒を持っているか推測しながらやる駆け引きが面白いらしく、キューバ人たちは相手を野次ったり、煽ったりと大声を出しながらエンドレスで楽しむのだ。ラムが入って本気度が上がると喧嘩が始まってしまうこともしばしば・・・

といっても、最初のうちはただ駒を捨てていくだけのドミノのどこが面白いのか全くわからず参加しても「何だかなー」と若干苦痛な付き合いだったのが、未だに初心者ではあるものの数をこなしていくうちになんとなく「ツボ」がわかってきて最近はキューバ人たちの盛り上がりにどうにかついて行けるようになった。

ここ数ヶ月、コロナの影響で路上ドミノも自粛中。いつになったら再開できるのかわからないけれど、キューバ人が集まるところにドミノあり、この法則はどんな状況であれ今も昔も変わらない。きっとこれからも。

我が家でも家籠り生活が始まった頃は、夕方家族でドミノをするのが日課になった。しばらくしていなかったのだけれど、最近またデジタルゲームに飽きた子供達がドミノの駒を持ち出して遊んでいる。

ハバナ遠景を楽しむ、カバーニャ要塞とモロ要塞

ハバナの街は要塞と城壁で防御された都市だったが、今でもそうした防御施設の跡が残っている。旧市街散策中にはアルマス広場のすぐ横にフエルサ要塞、ハバナ湾岸をマレコンに向かって歩いていくと外海に接する付近にプンタ要塞がある。そして旧市街からハバナ湾を挟んで対岸に目をやると、高台にある灯台を備えたモロ要塞、その横に長い石垣が岸壁上部に張り付いたように見えるカバーニャ要塞を望むことができる。

プンタ要塞付近から見るモロ要塞

要塞は「戦略上の重要地点に設けられる、主に防衛を目的とした軍事施設」であるが、これらの要塞も16世紀から18世紀にかけてスペイン植民地時代にハバナの街を守るため築かれたものだ。当時のカリブ海の島々はスペインが南米各地で採掘した金銀などを本国へ輸送する際の中継地点として重要な役割を果たしていたが、キューバもそれらの財宝を狙った海賊、植民地争いをしていたイギリスやフランスといったヨーロッパ各国の攻撃から街を守るために、要塞や城壁を作る必要があった。これらの石造りの強固な施設を見るとハバナの街の置かれた当時の状況だけでなく、スペインの財力や建築技術などを見知ることができる。歴史に興味がなくても、その大きさに驚き絶壁に組まれた巧みな石造りの急勾配に要塞としての役割を実感することができるだろう。だがモロ要塞とカバーニャ要塞をオススメする理由は他にある。

要塞から見えるハバナの街だ。

オー、マイ・ハバナ!

モロ要塞はハバナ湾の入り口の断崖をうまく利用して作られた要塞、ハバナ側から見る要塞内にある灯台を含めたその姿はハバナのシンボリックな景色のひとつとしてお馴染み。要塞内のテラスの部分には大砲が添えられ当時を彷彿させるが、この一番高いところからは視界の左半分にハバナの街、右半分に青い海が広がる。入場せずに、要塞の裏を巨大な堀に沿って行くと、本体から離れて外海に突き出たようにある砲台のあったテラスに出る。ここからの眺めも絶景。

テラス状の張り出しに立つと、その向こうは絶壁。柵も何もないので気をつけて

要塞の最も高低差の大きい張り出し部を横目に、遠くにマレコン沿いの建物の並びが伸びるのが見え、夏場はその横の海に太陽が沈む絶好の夕陽スポットなのだ。反対側に目をやれば真っ直ぐな水平線、天気が良ければどこまでも青い海が輝いて見える。冬場には荒波が要塞の壁と海岸の岩に叩きつける様子が見られるが、これもまた迫力があっていい。

観光客たちもここに集まって陽が落ちるのを待つ

カバーニャ要塞は、カリブ海域で最も規模の大きな要塞。ハバナ湾側に一直線に伸びる石垣の上にあるテラスには大砲が並ぶが、有名な大砲の儀式Cañonazoカニョナッソは毎晩ここで行われ、重要な軍事関連の行事や外国軍艦の入港時などにはここでセレモニーを行い大砲を打ち鳴らす。広いカバーニャ要塞内はチェ・ゲバラの執務室ほか展示施設もあって見所は多いが目玉は、やはりここから見える対岸のハバナ市街遠景。手前の旧市街、カピトリオの光り輝く黄金のドームが一際目立つ。奥には革命広場のホセマルティ記念館の塔、平らな土地に広がるハバナの街の様子を一望できる。

大砲の並ぶテラスからハバナを望む

この要塞側から見るハバナが最高に好きだ。何度行っても大きく手を広げて、抱きしめたくなる。¡Ay, mi Habana! (ああ、私のハバナよ!)って。

Castillo de los Tres Reyes del Morro モロ要塞
入場:10:00-17:00
Fortaleza de San Carlos de La Cabaña カバーニャ要塞
入場:10:00-17:00, 18:00-21:00(大砲の儀式)
旧市街からは目と鼻の先だが、車を使って海底トンネルを通っていくか、ハバナ湾の両岸をつなぐLanchoncitoランチョンシート=小さな渡し船に乗っていかねばならない。クラシックカーでハバナ湾対岸、カサブランカ地区にある見所を回ることも可能。

トリニダ、サン・イシドロ遺跡

ハバナより古い歴史を持つトリニダは、小さな街ながらコロニアルな建物がよく残るとても魅力的な街でユネスコ世界遺産にも指定されている。この街並みとともに郊外のロス・インヘニオス渓谷も18、19世紀のサトウキビ農園跡が残り現在でもサトウキビ栽培が継承され当時の雰囲気をよく残しているとして同じく世界遺産となっており、トリニダから観光列車やタクシーを利用して日帰り観光で訪れることができる。

展望台から見るロス・インヘニオス渓谷

このロス・インヘニオス渓谷にいくつかあるサトウキビ栽培が最盛期だった18〜19世紀当時、小規模な砂糖製糖工場を営んでいた農園跡のひとつが、San Isidroサン・イシドロ遺跡だ。渓谷の中を走る幹線道路から少し外れた山の麓にある遺跡までは、ここ数年で遺跡の整備が進み観光客も増えて多少マシなったとはいえ、まだ舗装されていないガタゴト道をゆっくりと進んで行く。

ロス・インヘニオス渓谷に点在するサトウキビ農園跡。中央の丸で囲んだところがサン・イシドロ

遺跡は現在も調査中、かつて日本で遺跡の調査に携わっていたことがあり訪れるたびに遅々としてだが進んでいる調査の様子が実は気になって仕方ない。ガイドとして説明しつつ、調査の進捗具合を密かにチェックするのが実は楽しみ。とはいえ、ちゃんとした調査報告を確認したこともないので、果たしてどんな成果が挙がっているのかよくわからず説明看板と遺構の状態を見てあれこれ想像するだけだけど・・・

そんな個人的な思い入れもあって、サン・イシドロ遺跡は当時の製糖農園の様子を再現し、キューバにおける奴隷制度や植民地制度とサトウキビ栽培の発展の関係を知るに当たってもとても興味深くオススメだ。

農園主の屋敷跡:農園主は普段はトリニダの街にある屋敷に住み、農園滞在時に過ごした建物。トリニダ市街にあるコロニアル建物と用いられているパーツは同じでも、全体の構造が違うのが面白い。

塔跡:三重塔。有名なマナカイスナガの塔にははるかに及ばないけれど、こちらも鐘釣台兼見張り台としての役割を果たしたもの。修復が済んで登れるようになった。

塔の上から農園領主の屋敷を望む

Trapicheトラピチェ:トラピチェはサトウキビからジュースを取るための搾汁装置。当初は人力や家畜を使ったものだったのが、蒸気機関の発明により後に機械化された。トラピチェを据えた跡のみが残り実際にどのタイプが使われたのかは不明だが、1900年代初頭に使われていたものがお隣の農園マナカイスナガに今でも残っている。

マナカイスナガのトラピチェ、今でもこれを使って絞ったサトウキビジュースを飲ませてくれる

Tren Jamaiquinoトレン・ハマイキーノ:「ジャマイカ列車」と名付けられたこの施設は、サトウキビジュースを大鍋で煮詰めて砂糖を結晶化するためのもの。フランスで発明されジャマイカ経由でキューバへ持ち込まれたことからその名がある。砂糖が鍋の底で焦げないように直接各釜に火を当てるのではなく、一番端の大鍋に沸かした湯からの蒸気を流してゆっくり加熱して結晶化させるよう工夫がなされている。その蒸気の流れる様子が蒸気機関車の煙のようで各釜を連なる客車に見立てて「列車」と呼ばれるようになったとか。当初は覆い屋根もあって熱がこもるとてつもない暑さの中での作業だったはずだが、大事な砂糖を焦がさぬよう火加減の調整を任されたのは、奴隷の中でも農園主に信頼されたものだったという。釜の据えられた丸いくぼみの形、基部のアーチ構造など曲線に組んだレンガ作りも美しく、その構造も非常によく分かって保存状態もいい、この遺跡の目玉となる遺構だ。ちなみに燃料にはサトウキビを絞りカスが使われていたそう。

「ジャマイカ列車」見事としか言いようのない遺構の残り具合

蒸留施設跡:建物の壁のみが残るが、ここには蒸留酒を作る施設があった。砂糖の生成過程でできる糖蜜を発酵、蒸留させてAguardienteアグアルディエンテという蒸留酒を作った。これを熟成させるとラム酒になる。酒は奴隷たちが過酷な労働に耐えるために感覚を麻痺させる麻薬の役割も果たしていたという。

農園内でお酒まで作っていたとは実に効率的

浄化作業小屋跡:結晶化した砂糖は素焼きの器に入れて一定期間置くことで分離、浄化されて砂糖として精製される。その容器を並べて保管する大型の小屋があった場所。現在は建物の基部礎石が残っているのみ。周辺に土器のかけらが多く散らばっているのがそれっぽい。

奴隷小屋跡:奴隷が過ごした小屋の跡。レンガで作った農園主の屋敷やその他の施設とは違い石造の粗末な建物。壁が立ち上がって残っている部分もあり、壁で仕切られて方形の小部屋が並んでいたことがよく分かる。4m四方ほどのスペースに8〜10名ほどの奴隷が一緒に暮らしていたという。奴隷たちは家族をなし子供を設けることは許されていた。なぜならその子供も奴隷となり、新たに奴隷を購入することなく労働力を増やすことができたから。

キューバの砂糖産業の発展を支えた奴隷たちは、家畜同然の扱いを受けていた。

そのほかにも井戸、ダムとそこから引かれる水路、水路を渡る橋の跡、粘土を練る装置跡、地下貯水池といった遺構が残っていて、当時の典型的なサトウキビ農園と製糖施設の様子を再現するに十分な資料だ。

行く度に進化するサン・イシドロ遺跡、今後も少しずつ調査が進んでその成果を活かして遺跡全体が整備されるのが楽しみだし、より多くの人が訪れる観光資源としても大いに期待できるのではないかと思う。

だから遺跡入口の道、舗装してね!

キューバでラム酒を

旅先でその土地のお酒を試してみるのは、アルコール好きでなくても楽しい体験のひとつだ。キューバについてちょっと調べれば、「現地で絶対飲みたいカクテル、モヒート」とか「ヘミングウェイの通ったフロリディータでダイキリを」なんていう記事を目にする。モヒートもダイキリもキューバ発祥といわれるキューバを代表するカクテルで、キューバを旅行すれば一度は口にする機会があるだろう。どちらも清涼感あふれる飲み物でカッと太陽の照る暑いキューバで飲むと、これがまた格段に美味い!

レストランやバーには必ずあるモヒート、色々な場所のものを飲み比べるのも楽しい

このモヒートもダイキリもラム酒をベースにしたカクテル、ちょっとお酒好きならキューバといえばラムとすぐに出てくるだろうけれど、そうでなければモヒートやダイキリは知っていてもそのベースがラム酒であることは知らない人もいるかもしれない。

キューバでお酒といえば、ラムなのだ。

Ron:スペイン語では「ロン」。もちろんキューバ人たちはRon大好き、お酒を飲む=Ronを飲むで、パーティーはもちろんキューバ人たちとのちょっと集まり、ドミノをしながらのお供にとRonは欠かせない。ホワイトラム、熟成した琥珀色のラム、ブランドの高級ラム、配給所で量り売りされているラム、どんなラムでも多くはストレートで飲む。家庭や身内のパーティーではカクテルなんて面倒なことはしないので、せいぜいコーラなどの炭酸飲料で割るかレモン果汁を加えて飲むのが普段の飲み方。アルコール度数は40度前後と高いけれどほのかに甘みがあるので意外に飲みやすく、味わいがある。飲みすぎなければ、ゆっくり知らず知らずのうちに気持ちよーく酔えるのが個人的には好きだ。

レトロな雰囲気のバーでラムを

このラム酒の原料となるのが、砂糖。

キューバの砂糖の歴史はコロンブスが2回目の航海の際にキューバに持ち込んだサトウキビの栽培に始まる。当初は果たしてこのカリブの島でアジア原産とされるサトウキビが育つのかという懸念もあったらしいが、キューバの気候と土壌が適していたことから各地で栽培され砂糖の生産がキューバ中に広がった。そして18世紀から19世紀にかけて砂糖ヨーロッパ向けの需要の高まりとともに世界的に有名な砂糖生産地となった。現在でもキューバの主要産業、輸出品のひとつだ。

サトウキビ photo by EcuRed

ラム酒はその砂糖の副産物、砂糖の生成過程でできる「糖蜜」を発酵、蒸留、熟成させて作られる。18世紀後半には砂糖農園で働く黒人奴隷たちが作って飲んでいることが知られるようになり、19世紀になると蒸留装置が持ち込まれ「商品」としてのラム酒作りが本格的に開始された。そうして現在ではキューバのお酒といえば、ラムとなったのだ。

キューバのラムといえば、ハバナクラブ。写真は宣伝広告から

ところでサトウキビ=砂糖とラム酒の関係は、日本の米と日本酒の関係に少し似ている。サトウキビはキューバの全土で栽培され全国各地に製糖工場があり、工場の近くには蒸留所があってそれぞれ独自の方法、香り付けをした異なる風味のラム酒、銘柄が存在する。日本の酒蔵のように無数にはないけれど、キューバ各地に蒸留所があって「地ラム酒」が作られているわけだ。

お酒好きの方、通の方、キューバのラム酒を是非カクテルだけでなくストレートで飲んで、 ハバナクラブ以外の銘柄もお試しを!

サルサはうまく踊れない・・・

キューバといえばサルサ。サルサは音楽ジャンルのひとつであるけれど、それだけでサルサダンスをイメージする人も多いことだろう。私自身もキューバやラテン文化にまだあまり詳しくない頃には、サルサはダンスと思っていた。ラテンについて興味がなくても、ダンスとしてのサルサを知っているということもあり得るし、サルサダンスからラテンにハマっていく人も少なくないはずだ。

そうしてサルサにのめり込んだ人は、キューバに憧れる。

これまでにサルサを踊りに、サルサを習いに、サルサフェスに参加するためにキューバを訪れる人達にたくさん出会った。ハバナ旧市街のサルサダンス教室はいつも様々な国の人たちで満員御礼だし、Casa de la músicaカサ・デ・ラ・ムシカへ行けば、現地の人顔負けに上手に踊る外国人を見かける。

ハバナ旧市街にあるサルサ教室の様子

サルサダンスの起源については諸説あるのでおいといて、その音楽もダンスもキューバでは皆が大好き、ポピュラーなものであることは間違いない。最近の若者の間では新しいジャンルの音楽の方がメジャーになってきているから、もうどちらかというとキューバ伝統的音楽といってもいいかもしれない。ダンスにしても、キューバ独自の数組のカップルが輪になって相手を変えながら踊るRueda de Casinoルエダ・デ・カシーノというスタイルで踊ることのできるのは、40歳代以上の人なんじゃないかと思う。もちろんダンスを勉強していたり、ミュージックVTRに登場したりするダンサーたちはできるだろうけど・・・

Rueda de Casinoルエダ・デ・カシーノを踊る人たち photo by Cubadebate

派手にクルクル回って高く脚を上げ、男性が女性を持ち上げたりするNYスタイルと呼ばれるダンスも素敵だけれど、どうせやるなら細かなステップを刻んで男女が絡みあいながら流れるように踊るキューバンスタイルがいいなあ、と思った。たまたま日本で初めてサルサを教えてもらった女性がキューバ人、エクアドルで通っていたサルサ教室にもキューバ人男性の先生がいたので、その「さわり」だけはやってみた。彼らの何でもないように滑らかに動く腰、自然に音楽にあわせて刻むステップ、いつか自分もできるようになるかしら・・・

が!!見るとやるでは大違い。全然できない。

練習して少しは様になってきたかなと思っても、踊りながら我ながらいけてないことがわかって赤面する。キューバ人たちが「別に練習するわけじゃない。」と言う通り、これはもう頑張ってできるものではなくあくまで何でもないように、自然にできてしまうものなのだ。

だから、ハマる前にやめた。

それでも元々キューバ音楽が好きでキューバへ来て、キューバで暮らし、キューバ人たちと一緒にサルサのライブへ行く機会もあるので、そういう時には何となくそれらしい感じで身体を動かしてみる。たとえうまく踊れなくても・・・

屋外ライブに行く
たまにはカサ・デ・ラ・ムシカにも行く

ところでコロナの影響でライブもフィエスタ=パーティーもなく、もちろんサルサ教室も閉まっているのだけれど、これからwithコロナの時代にサルサダンスはどうなるんだろう?マスクして踊る??

サルサだけじゃなくタンゴも社交ダンスも、濃厚密着必須のダンスたちの未来がふと心配になった。

第60回キューバ野球国内リーグ開幕!

コロナ禍、多くのスポーツイベントが中止・延期になったり形を変えて行われたりしている中、9月12日野球の国内リーグが開幕した。最近ではキューバ野球のレベル低下が懸念され、キューバ人の野球熱も以前ほどではないにしろ、未だに野球はキューバの国技ともいえる国民的スポーツでもあり、このご時世に明るいニュースだ。

キューバ革命以前1940年代のキューバ野球リーグのチームは、アメリカ資本の工場や企業などに属しそれぞれの会社を代表する選手によって構成されていた。それを1959年革命勝利後の1961年、キューバ政府は企業の絡む拝金主義的な考え方を排除して、国の目指す社会主義的思想を基盤としたSerie Nacional de Béisbolセリエナシオナル・デ・ベイスボール=国内野球リーグを新たにスタートさせた。それが現在まで続く国内リーグセリエナシオナル、2020年はちょうど60回目の区切りの年となる。

photo : Granma

そして今年はコロナの影響でいつもと違うシーズン。

まず開幕が1ヶ月ほど遅れた。通常8月上旬にスタートだが今年は9月12日。したがってリーグ日程も多少変更があって、後半の準々決勝、準決勝、決勝リーグ戦の試合数がそれぞれ例年より少なく組まれているようだ。

9月12日〜12月27日 第1次リーグ戦:総当たり各チーム75試合

1月9日〜14日 準々決勝リーグ:第1次リーグ上位8チーム参加

1月17日〜25日 準決勝リーグ:準々決勝上位4チーム参加

1月28日〜2月5日 決勝リーグ

何より大きく違うのは全試合無観客で行われることだろう。球場での観戦もかつての盛り上がりがないとはいえ、ファンとしてはやはりライブでチームと一体となって応援したいところだし、娯楽の少ないキューバではファンでなくとも球場は家族や友達、恋人と出かける格好のお出かけ先となるのに残念。

ハバナチームの本拠地、ラティーノアメリカーノ球場。今のところハバナの感染予防規制のためハバナのチームインダストリアーレスはアウェーでのみの試合

当然、リーグ開催中も感染予防に十分な配慮がとられる。野球関係者だけでなく、チーム担当医や各地の医療機関も感染者の発見や感染者が出た場合の隔離体制を整えて待機しするなど感染防止を徹底するための策がとられる。選手と関係者は全員、移動があるごとに簡易のコロナ検査を受けて感染していないかを確認した上で試合に臨むそうだ。

各チーム、チームカラーやロゴをデザインしたマスクを準備して臨む 
photo: radiobayamo.icrt.cu

選手や関係者は各自、手洗いや道具の消毒、自己健康管理の徹底について責任を持って行うこと、選手はプレイ中以外にマスクを着用、コーチや監督、審判などは試合中通して着用のこと、試合前の整列はなし、ベンチでは選手間の距離をとり、好プレーや得点時にもベンチ内、ベンチ外と問わず選手が集まって喜び合うことはない、歓喜の表現は肘タッチか距離をとっての動作で、などなど。

なんかこれって、真剣にプレイして試合に集中している選手たちに強制できるものなんだろうか?試合中の感情表現までセーブしなきゃならないなんて。お行儀よくプレーするキューバ人選手なんてあまり見たくないような気もするけれど・・・

お馴染みのハイタッチもナシ?! photo: Granma

それから選手たちだけでなく、野球ファンにも感染防止に努めるよう勧告があった。熱狂的ファン達はシーズン中、毎日のように集まって前日の試合を振り返りながら野球談義に精を出す。この「場外」での白熱の仕方が半端なく、大声を張り上げてハタから見ると喧嘩しているかの勢いだ。彼らに対しても集合禁止、おとなしくテレビ観戦するように、というわけだ。確かに彼らは大勢で集まって、顔を近付け、唾をペッペと飛ばしながらバトルするので、たとえコロナでなくても菌を撒き散らしまくりの状態になりかねない。

こうしてコロナ禍、始まったセリエナシオナル。様々な規制のせいでキューバ野球熱がますます冷めてしまうか、それとも外出できずに家庭でTVを見て野球観戦する人が増えて予想外の盛り上がりを見せるか、選手の頑張りと試合内容しだい?!

この子の十五のお祝いに・・・Quinceキンセ15歳の誕生日

キューバでは誰もが誕生日をとても大事にしていることは少し前に書いた。誕生日といえばちょっとしたパーティーをするのが習慣で、呼ぶ側も呼ばれる側にとっても友達や家族が集まって飲み食いするというキューバ人が大好きなひと時を過ごす格好の口実でもある。だからいくつになっても誕生日は大切なんだろうけれど、子供が成長して大人になる年齢、成人になる年は本人にとっても両親にとっても特別な日。中南米の多くの国では15歳をその区切りの年としてお祝いするところが多い。キューバでも法律上の成人は18歳とされているが、15歳の誕生日を特別に祝う習慣がある。

15=Quinceキンセ

数字の読み方そのままで、年齢だけでなくお祝いイベントそのものも指す。このキンセ、なぜか女の子だけが盛大にお祝いされる。諸説あるようだが、起源は古代メキシコアステカやマヤでは女性は15歳になると大人として結婚(=子供を授かる)することができるとして、数多くある人生の区切りを祝う儀式のひとつを行なったことに由来するというもので、後にカトリックの習慣と結びついて広がったのだとか。パーティーで踊る特別なダンスがあったり、キャンドルの儀式をやったりと国や地域によって祝い方は違うようだけれど、今でも女の子の15歳の誕生日は一生に一度の特別なイベントであることは間違いない。

キューバではかつては招待された若い14組のカップルがワルツ踊ったりなんだりする伝統的な習慣もあったそうだけれど、最近ではそこまですることはほとんどない。一般的なのはまず、いつもより多くの人を招いての誕生日パーティー。自宅ではなく海辺のプール付きのカサパルティクラルやレストランを貸し切って行うこともある。巨大なケーキやお持ち帰り用の甘いお菓子とサラダと揚げ物、飲み物、豚肉料理などの伝統的なキューバ料理・・・このあたりはいつものパーティーメニューと変わらない。主役のQuinceañeraキンセアニェーラ=15歳を迎える女の子は、バルーンで飾られた会場の中へお姫様のように着飾って登場するはずだ。

クラシックカーに乗って photo by Cubadebate

それからこのパーティーに先立ってアルバムを作るのも忘れてはならない。この撮影というのが、ハバナであれば旧市街などのフォトジェニックな場所、緑の多い公園、海沿いの通り、あるいはクラシックカーに乗ってあちこち移動しながら1日がかりでプロのカメラマンが同伴して行われる。途中で衣装をドレスからカジュアルまで取っ替え引っ替えして、化粧直しパシャパシャとシャッターを切られてモデル気分を味わいながらの撮影。本人にとってはこれが一番楽しいキンセの想い出になるんだろうなあと思う。

ハバナの町歩きの途中でも、キンセの撮影によく遭遇する。

それにしても15歳とはいえキューバの女の子は確かにもうしっかり一人前の女性だ。色っぽい眼差しでポーズをとる姿も、出来上がった写真に写る姿もとても中学3年生の女の子とは思えなくて、その早熟さにびっくりする。

こうしたキンセのお祝い、当然のことながらしっかり商売にもなっていて決してお安いものではない。キューバの物不足もあってパーティーの準備をするのも大変だ。それでも親はやっぱり可愛い我が娘のために何年も前からコツコツお金をためてその年に備える、ということをやっている。普通貯金なんて考えもしないし、する余裕がないキューバ人ですら!!

親泣かせのキンセ、娘を持たなかった母は内心ホッとしている・・・

キューバ人と誕生日

8月13日はフィデル・カストロの誕生日だ。生きていれば今年94歳。

若かりし日のフィデルの写真が新聞記事に。Photo by Granma

国を挙げての大きな行事があるわけではないけれど、この日が近付くとフィデル関連の報道が目立つ。テレビではフィデルの眠るサンティアゴ・デ・クーバのお墓での行事の様子や花を手にお参りをする人々の姿が映し出され、生前の功績やエピソードについて様々な映像が流れる。今年はコロナの影響でハバナで市民が参加するようなイベントはなかったものの地方ではお祝いの集会や音楽ライブなどが開催されたようだ。本当ならオリンピックイヤーだったはずだからだろうか、スポーツ選手達がフィデルとの想い出を語るインタビューがやたら多いような気がする。キューバ革命を率いた第一人者は今でもComandante en jefe最高司令官フィデル・カストロとして国民の心の中に生きていて、ともに誕生日を祝う。

マスクをした人たちがフィデルへ花を捧げるために並ぶ、サンティアゴ・デ・クーバのサンタ・イフィヘニア墓地 photo by Granma

キューバで誕生日はとても大事だ。生きている人だけでなくて、すでに亡くなっている人の誕生日もその人を偲んで静かにお祝いする。歴史上の人物やなんだかの分野で活躍した人ならなおさらで、その筆頭はキューバ国民の英雄ホセ・マルティの誕生日だろう。キューバのスペインからの独立を導いた政治家であり、フィデルも師と仰ぐ人物だ。そのマルティの誕生日は1月28日で毎年この日は前夜祭から始まって、当日はキューバのありとあらゆる所にあるマルティ像へ花が捧げられ様々な行事が催される。他にもキューバ独立戦争や革命の中心人物、映画俳優、作家や詩人、スポーツ選手まで誕生日にはテレビニュースになったり、新聞記事が出たりする。すでに他界している人に関しては亡くなった日も大事なので、それもチラッと話題になる。だからほぼ毎日のように誰かの誕生日か命日であることを耳にすることになる。

一般の人たちにとっても、もちろん誕生日は特別だ。

子供の誕生日は親たちが気合を入れて準備をする。なかでも1歳の誕生日はUn añitoウン・アニート=1歳ちゃんのために大きなFiestaフィエスタをして祝う。

ピニャータ炸裂!この下で子供達がお菓子を拾うためにしゃがんで待っている。

これはキューバだけではなくて中南米どこでもそうらしいけれど、昔は生まれて間もなく亡くなってしまう子供も多かったので、1歳まで無事に育ってくれたことを親たちが喜んで大々的にお祝いをしたことに由来するらしい。子供の誕生日会は子供たちのためのもの、ということでたくさんの子供達がやってきて(子供なら招待されていない友達の友達の友達でも参加可)賑やかに行われる。大きなケーキはもちろん、誕生日には欠かせないピニャータ(動物の形などした張りぼてを子供達が叩き割って、中から落ちてくるお菓子やオモチャを拾う子供が大好きな誕生日イベント)、ピエロが登場したり、ビンゴゲームがあったり・・・とにかくモノのないキューバでこれをやろうと思うと準備がものすごく大変!

息子6歳の誕生日、頑張った!!

ということをキューバに来て翌年の息子の誕生日会で実感したので、我が家では息子の誕生日会はケーキだけで身内で済ませ誕生日旅行で逃げることにした。

大人たちも誕生日には家族や友人たちとFiestaフィエスタをする。皆で集まって食べて飲んで、音楽ガンガンかけて踊ってが大好きなキューバ人たち、誕生日という特別な日をパーティーの口実にしないわけがない。定番は自宅に皆を招待するのだが、ちょっと景気のいい人はプール付きの1軒家を借りてやったりもする。飲み物はビールとラム酒で決まり、お決まりの軽食メニューはマヨネーズベースのペーストを挟んだパン、マカロニサラダ、コロッケなどの揚げ物、一口大の激甘キューバお菓子、そしてメレンゲたっぷりのケーキ。なぜーかこれらを全部一緒に折り畳み式のランチボックスに詰め込んでお持ち帰りする。甘いものもしょっぱいものもごっちゃ混ぜにされるので、家に帰って開けた時には大変なことになっているのだけど、これがないとキューバの誕生日会ではないらしい。

ところでこの誕生日会、キューバではお祝いしてもらうものではなく自分で企画して皆を招待するものだ。呼んで楽し、呼ばれて楽し、で誰もが年に1度はある誕生日だからお互い様。何となく誕生日は誰かに祝ってもらうもの、という気がするのでちょっと違和感があるのだけれど、これもキューバ式。

キューバの信仰

キューバの宗教について一般的にはスペインの植民地であったことからカトリック信者が多いとされるが、一方で同じくスペイン領であった他の中南米諸国の中でも最もカトリックが浸透しなかった国、とも言われている。これはキューバ革命が宗教を否定したためと思われがちだが、実際には革命政府は宗教の否定もカトリック信者の排除もしてもいないので、革命以前からの傾向や他の宗教の影響もあったようだ。

他の中南米諸国では原住民のインディヘナの人達までも敬虔なカトリック信者だったりするし、日常のあらゆる生活習慣にまでカトリックの影響が色濃くみられる。とある宗教が浸透する国や地域ほど、旅行をしていても「宗教は何?」と聞かれることが多いように思う。中南米でも同じ質問をよくされるけれど、その度に

「Atea(アテア)無神論者」

というと、多くの人はギョッと引いて怪訝な顔をし、中にはその場で神について説き始める人もいる。

ところがキューバでは同じ答えをしても「そっか」で終わる、もしかしたら「私もだ。」と同意される。他にもカトリックがあまり浸透していないことを示す例を挙げると、クリスマスが盛り上がらない。1998年革命後初めてローマ法王がキューバを訪問して以降12月25日が祝日になって、最近でこそツリーを飾ったり、街中のレストランの店員がサンタの格好をしていたりすることはあっても、他のカトリックの国に比べると断然地味なクリスマスだ。

ハバナの旧市街にあるカトリックの大聖堂、カテドラル

カトリックの他にキューバ人が信仰する他の宗教として挙げられるのが、アフリカ由来の宗教だ。これは植民地時代にアフリカから連れてこられた黒人奴隷たちが信仰していたものが、カトリックなど他の宗教と結びついてキューバで独自の発展をしたもので、いくつかの系統に分かれている。このうちハバナやマタンサスなど西部地域で多く信仰されているものはSantería サンテリーアと呼ばれ、これが広くキューバのアフリカ系宗教の総称のように使われることがある。で、大雑把にサンテリーアがどんな宗教かというと、

  • この世の全て想像した神Oldomareオルドマレの下に、Orishaオリーシャと呼ばれる複数の神がいる。起源となったアフリカの伝統的宗教では400以上のオリーシャが存在するというが、現在キューバで重要とされているのは12だけ。
  • オリーシャは、カトリックの聖人=Santoサントやギリシャ神話の神々に相当するようなもの。キューバにおいては黒人奴隷たちが植民地時代に隠れて自らの神々を信仰するため、各オリーシャにカトリックの聖人を割り当てるようになった。
  • それぞれのオリーシャは、自然界および人間界に及ぼす特性を備えている。また、祭日、好みの食べ物、色、数字といったものを持つといった個性がある。例えば・・・(以下カトリックの聖人、自然・人間界に及ぼす特性、色、祭日)

Ochúnオチュン:Virgen de la Caridad カリダッの聖母、川、愛と結婚とお金、黄色、9月8日
Changóチャンゴー:Santa Bárbaraサンタバルバラ、雷、太鼓と舞踊と情熱と男らしさ、赤と白、12月4日
Obataláオバタラー:Virgen de la Mercedメルセッの聖母、大地、平和と精神性と知性、白、9月24日

  • サンテリーアの信者はオリーシャが日常の全ての事象をコントロールすると信じ、これらの神々へ好み供え物を捧げたり、儀式を行って神々からお告げを受けたりして自らの道(人生)を良い方へ導いていこうとする。
  • 信者はそれぞれ自分にとっての「特別なオリーシャ」を持っており、自宅にそれを祀るための祭壇を作る。
  • 信者は直接オリーシャからのお告げを受けることはできない。Babalawoババラオという司祭に当たる人物がオリーシャの言葉を理解して信者に告げる。
  • 信者はオリーシャの力を使って自然界にある力と自らが備え持つ特性の奥にある力のバランスを健全に保つことに努め、最終的には自らの道を切り開いていく。

といった感じだけれど、実際には全くもって複雑でこんな簡単に説明できない。

一般宅にある祭壇、この日はサントの誕生日(修行を終えると信者として生まれ変わった日=誕生日がもうひとつできる)だったので少し着飾って。
同じく誕生日のパーティーでの捧げ物、オリーシャは甘いものが好き?!

ただ個人的にはギリシャ神話やマヤ文明の神々にまつわるお話と同じで、これらの神様たちの話は良くできた物語として興味深いし、キューバの歴史や文化を構成する一要素としてみるとなるほど、と思う部分もある。

ところで旅行者でもこのサンテリーアに触れる機会がある。

キューバで街を歩いていると、全身真っ白な人に出会うことがあるが、これはサンテリーアに入信するための修行中の人だ。サンテリーア入信のためには一定の儀式、通過儀礼を行っていくつかの厳しい規制を守りながら1年間の修行期間を過ごさなければならない。その1年間行う規制の一つが「全身白いものを身につけて過ごす」というもの。頭の先から足の先、持ち物までぜーんぶ白いので一目で分かる。

それから街の角、交差点の道端で動物の死骸を目にしてビックリすることがあるかもしれない。これはサンテリーアで行う様々な儀式で動物を捧げる=犠牲にすることがあるのでその残骸、といってもそうする理由があって「置いてある」のであって決してポイっと捨ててあるわけではない。

これは自宅内で行った儀式の残骸・・・

またサンテリーアに関わる音楽やダンスもキューバの伝統文化として見たり、聴いたりする機会があるかもしれない。

現在、サンテリーアを始めアフリカ起源のキューバで独自に発展をしたいくつかの宗教はカトリック以上にキューバに浸透しているともいわれ、黒人白人関係なく信者でなくてもその習慣や考え方の一部を生活に取り入れている人は多い。それにカトリック信者だったはずの人がサンテリーアに入信することも良くあり、それが完全な改宗というわけでなく、「どっちも信じる」という人がいたりする。また最近はサンテリーアビジネスなるものもあって、外国人でもサンテリア体験なるものができたりする。

オリーシャの祭壇と一緒にサンタクロース、別になんてことない。

時代とともに宗教の形は変わるのだろうけれど、アフリカから来た宗教がカトリックとの融合している点などキューバは宗教までもキューバらしくInventoインベント(発明/でっち上げ)してしまうのが面白い。そしてキューバ人のゆるーい宗教観、ちょっと日本人と似ている?!