26 de julio ベインティセイス・デ・フリオ

7月26日はキューバの祝日だ。

Día de la Rebeldía Nacional:国民蜂起の日

キューバにとってこの7月26日という日付は特別な意味を持つ。今から67年前の1953年7月26日、フィデル・カストロらがサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃した日であり、キューバ革命はここから始まったとしてその後の一連の反政府運動と組織をMovimiento-26 de julio (M-26-7  7月26日運動)と呼ぶ由来となった象徴的な日なのである。キューバを旅行中に革命関連の博物館や施設を訪れるとこの数字の旗や腕章に気付くだろうし、7月のこの日近くなら政府関連の建物に大きな赤と黒のM-26-7の旗を目にするかもしれない。

ある年の7月26日、ハバナ旧市街を歩いていて目にしたM-26-7の旗。

1952年、フルヘンシオ・バチスタ軍曹は1940〜44年に続き2度目の政権を狙っていたが、選挙で当選の見込みがないとわかるとクーデターを起こして大統領となり政権を握った。この実施されなかった選挙へはフィデルも立候補を予定していたのだが、選挙で当選して政治家として政府に立ち向かうことを阻まれ、さらに弁護士としてバチスタ政権成立の不当性を提訴するものの相手にされず・・・となると武装闘争へと反政府運動の方向転換をするしかなかった。

フィデルはアベル・サンタマリアらとともにハバナで若者たちを集め秘密裏に計画を進め、最初の襲撃の対象をサンティアゴ・デ・クーバにあるモンカダ兵営とした。ハバナにしなかったのはサンティアゴの方が政府軍の勢力が弱く距離があることから速やかに兵力を送るのが困難なこと、とはいえキューバ第2の規模の重要な軍事拠点ということで襲撃によるインパクトは大きいと想定されたこと、さらにこれを契機に国民を蜂起させるためにも伝統的なオリエンテ(東部地方、スペインからの独立戦争もここから始まった)の気質が有利に働き、たとえしくじってもシエラ・マエストラの山中に入って戦いを継続可能であることを考慮して決めたという。この時点でモンカダ兵営襲撃が失敗しても、その後どのように戦いを進めていくかまで見据えた計画であったことがわかる。

現在のモンカダ兵営。建物外壁には銃弾の跡が残る。革命後は小学校となったが、一部は博物館として利用されていて見学可能。(写真はグランマ新聞より)

そして、1953年7月26日。前々日の24日は市制記念日、当日はサンティアゴの守護聖人サンティアゴの祭日であり、毎年この前後にサンティアゴ・デ・クーバのカーニバルが行われる。この年の7月26日はちょうど今年と同じ日曜日。土曜の夜は祭りも最高潮に盛り上がり翌日は警察や兵士たちも二日酔いと疲れに見舞われ警備が手薄になるであろう隙を狙って選ばれたその日の早朝、フィデルたち122人は3つの部隊に別れて兵営および隣接する病院、裁判所襲撃を決行した。だが大学を出たばかりの若者や職人などの貧困層によるわずかな武器を手にしたグループは武装抗争の経験などもちろんない上、ハバナ出身の彼らは土地勘すらなく目的の兵営にたどり着くにも往生するという全く不利な戦況だった。そんな状況で400人余りの政府側の兵士たちの攻撃にまともに立ち向かえるはずもなく、アベル率いる部隊とフィデルの弟ラウル・カストロ率いる部隊が一旦はそれぞれ病院と裁判所の占拠に成功したものの、兵営本体を狙ったフィデルたちは運悪く兵営周辺の警備隊に見つかって内部侵入前に銃撃戦となってしまった。そして見極めたフィデルは早々に退陣を決め命令を下した。

襲撃そのもので亡くなったのは10名にも満たなかったが、その後の逃走中に多くが捉えられ約半数が拷問を受けて処刑され、その中にはフィデルとともに先頭に立ってグループを率いたアベルもいた。フィデルはシエラ・マエストラへ向かう途中で捉えられ、処刑は逃れたものの投獄されてしまう。そして同年10月の裁判で襲撃グループのリーダーとして禁錮15年の判決が下り、ピノス島(現在の青年の島)のモデロ監獄へ送られた。

フィデルたちの7月26日のモンカダ兵営襲撃は失敗に終わった。

モンカダ兵営襲撃後の裁判で、フィデルは被告人でありながら自分で自分を弁護し本のタイトルにある「La historia me absolverá 歴史は私に無実を宣告するだろう」という有名な言葉を残した。

けれどこの時のバチスタ政権が彼らに対して行った残虐な行為が明らかになり、それまでアメリカ資本の基盤に私腹を肥やし独裁政治を行ってきたバチスタの下で、貧困に苦しむ多くのキューバ人たちの不満が拡大し反バチスタ機運を押し上げ、国民を巻き込んでの運動へと発展していったのだ。フィデルは収監中も裁判の陳述を文章にまとめ、仲間を使って印刷して市民の手に渡るようにするなど革命へ向けた動きを進めていき、これに同調した人々がフィデルの恩赦を求め、それを政府も認めざるを得ない状況となって1955年5月15日、フィデルは仲間とともに釈放された。

その後フィデルはメキシコへ亡命してキューバ革命へ向け新たな組織を結成し、本格的な戦いへ向けた準備を開始するのである。1956年12月、82人でグランマ号に乗ってキューバ東部へ上陸、それから先はシエラ・マエストラでのゲリラ戦を展開して徐々に国民を味方につけ西へと進み、1959年1月1日のバチスタ国外逃亡をもっての革命軍勝利へとつながっていった。

こうしてみるとまさしくキューバ革命の起点はモンカダ兵営襲撃であったと言えるが、その後の革命勝利がなければ一人の若者が起こした反政府勢力の襲撃未遂事件としてキューバの歴史に残るかどうか、といった出来事に過ぎなかったかもしれない。革命成功があってこその26 de julio ベインティセイス・デ・フリオ 、国民蜂起の日なんだと改めて思う。

この時期の新聞には26 de julioの記事がいっぱい。

今では7月26日前後は土日を合わせて連休となるように祝日が設定され、26日当日はその年の祝典開催州で様々なイベントが行われる。が、今年は言わずと知れたコロナ影響でこれらの大々的なイベントは中止となり、小規模な祝典のみ開催された。

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