ヒロシマ、ナガサキ、そしてキューバ

「今年の夏は、いつも違う特別な夏」

昭和の歌謡曲ならちょっとドキドキしてしまいそうなフレーズだけれど、現実はコロナの影響で海へ山へと楽しいバケーションも、久しぶりに家族で集う里帰りも自粛のムチャクチャネガティブな「特別な夏」だ。これはキューバでも同じ。あまりに長い、そしてここにきていつまで続くか分からない休みを楽しんでいるのは子供達ぐらい。

夏、8月といえば個人的にはヒロシマとナガサキ、原爆投下を思い出す。父が広島で被爆している我が家では夏休みの真っ只中、8月6日の朝はテレビの平和記念公園での式典中継を見ながら8時15分に黙祷するのが恒例だった。その後も年に一度のこの日のどこかで、ヒロシマを思う。キューバに来てからもそうだ。

今年は「特別な夏」で、今ちょうどキューバはコロナ感染の再拡大が注目されていて、テレビのニュースもそればかり。毎年この時期にはヒロシマ・ナガサキの原爆投下に関するなんだかの報道がされるのだけれど、今年はどうなんだろうと思っていた。時差を考えると日本時間の8月6日午前8時15分はキューバ時間の5日午後7時15分、ちょうど夕食の準備やらで何やらでバタバタとしている時間帯でもあり、その瞬間はいつの間にか過ぎていた。8時前にハッと思って日本の方を向いて手を合わせてから、テレビを見るとニュース前の報道番組の最後に原爆投下時のキノコ雲や焼け野原になった街の様子と一緒にフィデル・カストロが広島を訪れ献花している場面が映し出され、75年前のこの日広島に原爆が投下されたことを紹介していた。そして9日長崎の原爆記念日には、夜のニュースの中で長崎原爆投下と同時に、広島の千羽鶴のお話の主人公であるササキサダコさんのエピソードが現在の平和記念公園の映像などを交えて紹介された。

焼け野原になった街の様子を映し出す画面
サダコさんのお話はキューバで何度か放映されている。

フィデルは2003年3月に日本を訪問した際に広島を訪れている。この頃まだキューバを知らなかったけれど、3月とはいえ寒い日に黒っぽいコートを着て大勢の報道陣に囲まれながら平和公園で献花するフィデルの姿はよく覚えている。今回テレビで見たのはまさにその時の映像だった。

この時フィデルはQue jamás vuelva a ocurrir semejante barbarie このような野蛮な出来事が2度と起こりませんように、とメッセージを添えて記帳した。photo by Cubadebate

キューバへ来てから、1959年革命勝利のその年にチェ・ゲバラも日本滞在中に広島へ足を運び、同じように献花している写真が残っていることを知った。そしてチェがフィデルに広島訪問について、「人として見ておかなくてはならない」と報告したということも。同じようなことを妻のアレイダにもわざわざ日本から葉書を出して伝え、同じ名前の娘アレイダも日本へ来た際にやはり広島を訪れている。

チェが広島を訪れた時の写真、ハバナのカバーニャ要塞チェの執務室資料館にも展示されている。photo by Cubadebate

こうしてキューバの革命を起こした重要人物たちが広島を知り、ヒロシマの重要性や歴史的事実が持つ意義をキューバの国民に伝えようとしたことは言うまでもない。キューバでは多くの人がヒロシマ・ナガサキを知っている。原爆投下された日の前後には関連するいくつかの報道がされ、学校でも原爆に関連する教育がされるという。少し偏屈な見方をすれば、アメリカという同じ敵を持ち、その敵に原爆投下という人類歴史上最も酷いといえるほどの仕打ちをされ叩きのめされながらも、戦後急速に発展し世界最高レベルの経済力を持つ国のひとつを作り上げた日本という国を見習うべく、キューバもアメリカの制裁にめげずやっていこう、という政治的プロパガンダとも取られるかもしれない。でも素直に見れば、現在キューバが掲げる平和的人道国家となるべく、こうした過去の悲惨な歴史を繰り返さない世界の構築に努めるべきと後世に伝えるためのヒロシマ・ナガサキの教えと考えていいだろう。

ヒロシマ、ナガサキ、そしてキューバ。 自分の中にあるヒロシマへの思いがなんだかの形で繋がってキューバへ流れ着いたんじゃないか、ふとそう思うことがある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。