キューバのコロナによる規制緩和:ハバナの学校再開

待ちに待ったこの日が遂にやってきた。

11月2日、学校の再開。

キューバで最初のコロナ感染者が出たのが3月11日。その後国内での感染拡大が始まって国境閉鎖と様々な規制が始まったのが3月24日。あれから7ヶ月ちょっと。途中夏休み期間があったとはいえ、子供達にとっても保護者たちにとっても長すぎる「お休み」がやっと終わり新学期が始まった。

ハバナ市内11月2日朝、登校の様子。Photo:Ismael Francisco, by Cubadebate

本来キューバの新学年は9月に始まる。でも3月末からずーっと感染予防のために学校は閉鎖されていたので、前の学年を修了することができていない。夏休み期間が2ヶ月、試験期間が2週間あるにしても、前学年の丸々2ヶ月半ほどは授業がなかったことになるので、その間の遅れをどうするのか心配していた。ハバナでは7〜8月に感染再拡大があって、学校閉鎖期間が延長されたこともあり当初の予定から二転三転、様々な噂や中途半端な情報が飛び交ったが、結局のところは11月2日から12月4日まで5週間は進級せずに前学年の学習をして、12月7日から晴れて新学年、新入学とすることになった。まあ、それなりの対応をしてくれるらしいのでひと安心。

当然のことだけど学校再開に際してはコロナ感染予防の為、これまでになかった多くの「決まりごと」ができた。登校時間を学年ごとに分けて順次登校とする、給食は食堂に集中しないように1クラスずつ、授業中もマスク着用、朝礼はなし、子供たちは各自石鹸、消毒液、タオル、マスク1日4枚(!)を持参すること、学校内への保護者の立ち入り禁止などなど。

Bolsita de aseo衛生袋と呼bぶ袋に、マスク、石鹸、タオルなどを入れて持っていく

了解、なんでもする。とにかく学校が始まってくれてよかったー!

ウキウキしながら鉛筆を削って教科書とノート準備して、しまってあったリュックを引っ張り出して綺麗に拭いて、遠足の前の日並みに喜ぶ母を横目に「学校イヤー!」と叫ぶ息子。とはいえ、再登校初日の朝は6時にはパっと起き、さっさと制服着替えて登校の準備を始めた。朝食もゆっくりとって、指定された登校時間ぴったりに学校へ。

なんだかんだいって、ちょっとは楽しみにしてたんでしょ?それとも久しぶりすぎて緊張した?ちょっとこわばった笑顔での「行ってきます」だった。

登校時、校門付近で一人ずつ手の消毒をするためにちょっと混雑

ハバナは最近、新規感染者もゼロから一桁で落ち着いており、街の様子も雰囲気も大分以前と変わらないような感じになってきた。これで学校が再開して子供達の制服姿が見られるようになると、「日常」がグッと近くなる。

もう一人のキューバ革命の英雄 Camilo Cienfuegosカミーロ・シエンフエゴス

ハバナを訪れたら必ず立ち寄るPlaza de la Revolución革命広場。この広場に2つの肖像がある。ひとつはあの有名なチェ・ゲバラの肖像。黒の輪郭線だけでキリッとしたチェの表情を見事に表現していてアート作品としても素晴らしいし、その前で写真を撮れば「キューバへ行ってきました!」記念の1枚になること間違いない。

で、もうひとつの肖像はだれか?

同じようなタッチの肖像だが、ヒゲモジャでちょっと虚ろな目、頭には大きな丸い帽子?で、なんだかパッとしない・・・多くの外国人観光客はここでガイドの説明を聞いて初めて彼がどういう人物か知ることと思う。

Camilo Cienfuegosカミーロ・シエンフエゴス

カミーロは、フィデルやチェらとともにキューバ革命戦争を勝利に導いた中心人物のひとりだ。チェは世界的にもその名の知れた革命の英雄であるが、カミーロは国外ではあまり知られていない。というのも、彼は革命軍が勝利した同じ年に乗っていたセスナ機が墜落するという事故によって行方不明、帰らぬ人となったため、革命後に表立って活躍する機会が少なかったから。

写真を見ればわかるが、カミーロはものすごい男前!広場の肖像はちょっと残念・・・

今、革命広場で隣り合っているチェとは、革命軍のシエラマエストラの戦いの同士として、同じコマンダンテ最高司令官まで上り詰めたゲリラ戦士として、互いに尊敬し合い非常に仲が良かったという。二人の性格は対照的で、気難しく物事を理論的に考えて行動するチェに対して、カミーロはとても陽気でおおらかな性格、ゲリラ戦では常に前衛部隊に属した。そこからきている彼を表すフレーズのひとつが、El Señor de la Vanguardia 前衛のセニョール。最前線をいけいけドンドンで突っ走るタイプだったわけだ。他にもEl Héroe de Yaguajayヤグアハイの英雄。これはカミーロが革命戦争最終段階で、中部ヤグアハイの戦いを最高司令官として率いて勝利したことが、チェの率いたサンタクララの戦いと並んで政府軍打倒に大きく貢献したことに由来する。それからEl Héroe del Sombrero Alónアローン帽のヒーロー。チェは星印のベレー帽を愛用していたが、カミーロはいつも大きな丸い鍔のアローン帽と呼ばれる帽子をかぶっていた。そう、革命広場のカミーロ像の頭にあるのは彼のシンボルでもある帽子を表しているのだ。確かに写真で見る彼はいつもアローン帽を被りクシャクシャの笑顔で笑っている。

ヒゲとアローン帽がトレードマークだったカミーロ。photo by Granma

アルゼンチン人であるチェ、裕福な家庭に育ったカストロ兄弟と比較するとスペインからの移民を両親にもちハバナの決して裕福とは言えない環境で育ったカミーロはより近く感じられたのだろう、El Comandante del Pueblo国民の最高司令官とも言われ、とにかくキューバ国民からの人気はとても高い。

フィデルともとても硬い信頼関係で結ばれていた。カミーロはメキシコで間もなくキューバへ向け出発するというフィデルたちに出会い、一番最後にグランマ号に乗るメンバーに選ばれた。ゲリラ戦に備えた訓練もまともに受けないまま革命軍のメンバーとなり、キューバに乗り込んで戦いを重ねるごとにその才能を発揮しフィデルの信頼を得て最終的には最高司令官にまで昇格し、いつもフィデルの隣にいる存在となった。

チェ、フィデル、カミーロ。photo by Granma

革命広場の肖像の下にある言葉Vas bien, Fidel「フィデル、お前はよくやってるよ。」は、彼らの信頼関係を示す言葉だ。時にフィデルが、カミーロに向かってVoy bien, Camilo?「カミーロ、自分はちゃんとやってるだろうか?」と尋ねた時の返事だ。フィデルほどの人物が自分の行動について確認するほどの相手、それがカミーロだったのだ。このことについてはチェも、「Voy bienというフィデルの言葉は彼の完全なる信頼に値する人物に対して向けられた。他の誰でもない、彼の中に絶対的な信頼を感じていた。」と語っている。

そのカミーロが27歳の若さでこの世を去ったのが、ちょうど61年前の10月28日だ。

今年はコロナの影響でハバナではまだ学校も始まっておらず、学校などでまとまって献花しに行くことはなかった。photo by Granma

この日、キューバ国民は花を持って海に向かう。海がない地方に住む人達は川へ向かう。そして一人一人が花を海に、川に向かって投げてカミーロを想う。セスナ機ごと海に落ちて見つかることのなかった彼の亡骸に花を捧げるのだ。これを毎年欠かさず続けるキューバ人。革命がどうとか、思想がどうとか関係なくいいな、と想う。

我が家のある団地はその名も「カミーロ・シエンフエゴス」。団地内のカミーロの像、命日の夕方、数本の花が置かれていた。

休日の農家訪問

キューバ人はあまり野菜を食べない。海に囲まれた島国なのに魚介よりも肉を好む肉食の人たちだ。普段の食生活で野菜はあくまで付け合わせであったり、スープの具だったり、味付けのための調味料であったりして、野菜をがっつり食べるというのはほとんどない。

それなのにキューバの有機野菜は世界的にも有名だ。

これは1990年代、ソ連崩壊の影響でキューバの経済状態がドン底に落ちたPeriod Especialペリオド・エスペシアル(特別期間)に、燃料、肥料、農薬などあらゆるが不足し、農業のやり方を変えざるを得なかったことによる苦肉の策によるもの。燃料がなくて農機具が使えないから牛馬を使って畑を耕し、肥料は家畜の糞や残飯から作り、農薬はないから使わない、仕方なく無農薬有機農法を取り入れるしかなかったのだ。また輸入に頼らず食料の自給を目的に、街中や都市近郊に小さな農園が登場したのも同じ時期だ。そのお陰で国民の食生活が救われただけでなく、世界的にも有名なオーガニック大国となった。手の掛かる高価な有機野菜をわざわざ探さなくても、キューバ人は安全で美味しい野菜が手に入るしそれを食べるしか選択肢はない。なーんて羨ましい話だ!と思うのにキューバ人は野菜を好んで食べない、残念・・・

セントロハバナにある市場。見た目は悪いけれど美味しい野菜たち

ただ生産調整がうまくできておらず、ハウス栽培もないから、旬のものができただけ出荷されるので、どこへ行っても同じ野菜しかなかったり、当たり前だけど旬のものしか食べられなかったりする。

それに加えてコロナの影響もあってここ数ヶ月野菜の流通も滞り気味で、ハバナでは本当に野菜が手に入りにくい状態が続いていた。だがありがたいことに我が家の近所の歩いて行ける距離に小規模な農園がいくつかあって、直接出向いて野菜を手に入れることができる。交通機関が制限されてあちこち探して買いに行くことができなかった間も、夫がせっせと近所の農家へ通い農家のおじさんと仲良くなってくれたおかげで、新鮮な野菜を食べることができた。

外出規制も緩和された先週の日曜、その農園へ家族みんなで出かけた。今、野菜は少なく畑にあるのはバナナと Habichuelaアビチュエラ(日本でササゲの名で見られる長いインゲン豆の類)ぐらい。畑といっても雑草は生え放題で、一体どれが植えられた野菜の苗なのかわからない状態。その中を夫は自分の仕事と言わんばかりにとっと入っていき、次々にアビチュエラを収穫していく。息子も端っこの方に残っていたものをボチボチ採って楽しむ。

一見、畑とは思えないけれど・・・

隣に植えられていたトマトや他の葉物野菜はまだ収穫にはしばらくかかりそう。キューバでトマトは冬の野菜。11月から3月ぐらいの限られた時期にしか食べられない。

早く大きくなーれトマトたち!

アボガドの林もあるのだけれど、もう収穫されてしまってほとんど実が残っていない。グアバは収穫しきれずに落ちてしまっているものもあって「あー、もったいない!」と夫は嘆きながら木に残ったグアバの実を採っては次々に袋へ入れていく。

以前はなかった苗床を作るためのビニールハウスができていて、中にはピーマン、トマトなどの小さな苗がずらりと並んでいた。コロナ禍始めた我が家の室内農園?!に植えよう、と苗をいくつかもらって帰った。

ハウスの中の様子。苗は他の農家にも売るそうだ。
本日の収穫?バナナは緑のものをフライなどにして食べる食用、オレンジは苦味のある味付け用、アビチュエラ。グアバはすぐにジャムとシロップ漬けにした。

コロニアルな家の裏庭に大きなマンゴーとアボガドの木。木陰にハンモック吊るしてお昼寝。それからバナナ、グアバの木も植えて、少しの野菜も育てましょ。そんな庭のある家に住むのが我が家の夢・・・

ハバナクラブとバカルディ

キューバのラム酒メーカーとして有名なのは、何と言ってもHabana Clubハバナクラブ。メジャーな商品は日本の一般的な酒屋でも手に入るし、キューバ旅行の際にはハバナクラブのロゴをラム酒ボトルだけじゃなくて、Tシャツやキーホルダーのデザイン、グラスと色々なところで目にするはず。もちろん旅の途中で口にすることもあるだろうし、お土産として1〜2本買って帰る人も多い。地元の人にも好まれるキング・オブ・キューバンラムだ。

ハバナクラブの商品ラインナップ、このうち日本でもいくつかは比較的簡単に手に入る。
Photo by EcuRed

日本でも輸入物も含めたくさんのラム酒の銘柄が手に入ると思うけれど、最もよく知られているのはバカルディではないだろうか。バカルディがラム酒と知らなくても、「コウモリマークのお酒」といえば分かる人も多いかもしれない。少し前に日本でモヒートブームがあり、その時もバカルディが大々的にモヒートのベースとしてラム酒を宣伝したり、カクテルそのものを飲みきりサイズのボトルで販売していたりしたと聞いた。個人的にはレゲエにはまっていた時期にジャマイカのマイヤーズをよく飲んでいたけれど、コウモリがちょっとイカつい印象のバカルディのボトルもよく目にしていた記憶がある。

バカルディラムでモヒートを・・・の広告。Photo by Amazon.com

実はこのバカルディも元々キューバのラム酒ブランドだ。歴史的にはハバナクラブよりも古く1862年キューバ東部サンティアゴ・デ・クーバで、スペインからの移住者Facundo Bacardíファクンド・バカルディ氏が設立した蒸溜所に始まる。バカルディの品質にこだわって独自の手法で生まれた蒸留酒はキューバで初めての本格的ラム酒として人気を博し、1900年代初頭にはキューバだけでなく世界に知られるようになった。1959年の革命勝利後、企業の国有化が実施された時にはすでに海外に拠点を持っていたこともあり、キューバを去ってプエルトリコ、その後英領バミューダ諸島に本社を移しさらに大きく成長、今では世界最大級のラム酒ブランドとなったというわけだ。

20世紀初頭、キューバにまだバカルディがあった頃の広告。
Photo by バカルディジャパンHP/bacardijapan.com

一方、ハバナクラブは1934年、ハバナの隣の州現在のMatanzasマタンサス州カルデナスでJosé Alechabalaホセ・アレチャバラが設立したラム酒製造会社だ。会社は革命勝利後、国有化され現在にいたり、国を代表するラム酒ブランドとなった。だから今ももちろんハバナクラブはキューバ国営企業。ただし海外市場はフランスのベルノ・リカール社との合弁で設立されたハバナ・クラブ・インターナショナルが担当し、世界中でハバナ・クラブが販売されている。ちなみにアレチャバラ家は革命後スペインを経てアメリカへ移住したのだが、そこでハバナクラブの商標を登録して、一時期バカルディ社からハバナクラブという名の商品を販売していた。その後更新手続きを怠ったとかで商標権が失効してしまい、のちにキューバ政府がアメリカでの登録申請をして一度は認可された。が、本件その後すったもんだがあった末に最近になってやっとアメリカでキューバ政府機関がハバナクラブの商標権を持つことが認められた、という話だ。こんなところにもキューバとアメリカ両国の関係、ここ100年ほどの歴史が反映している。

こうした歴史背景があって現在バカルディ商品はキューバ国内で販売されていないのだが、バカルディ家の残した遺産は見ることができる。発祥の地、サンティアゴにあるバカルディ博物館は初代ファクンド・バカルディ氏の息子、エミリオ・バカルディが市長だった当時、邸宅の一部を博物館として公開したことに始まる。建物も含めてキューバの歴史に関する展示ともにバカルディ家のコレクションなど豊富な資料があり、とても見応えがある。

プラサホテルの裏手すぐ。付近にある他のコロニアル調の建物とは全く違った意匠で目立つのですぐに分かる。

ハバナの旧市街には旧バカルディ本社ビルが残っている。1930年キューバで初めて建てられたアール・デコ調のビルで、当時ハバナで一番高い建物でもあった。正面中央の塔のてっぺんにはバカルディ社のシンボルであるコウモリの装飾が施されている。現在は国内外企業の事務所が多く入るオフィスビル。建物としてもとても魅力的なので、旧市街散策中に是非チラッと見て「バカルディはキューバの会社だったんだなあ」と思い出してもらいたい。そしてそのあとはハバナクラブを使ったカクテルをどうぞ!

キューバ、新しい日常のはじまり

先週政府より、10月12日よりキューバの新たなコロナに対する取り組みが始まることが発表された。ほぼ全土で感染拡大の傾向が収束に向かっており、すでに7ヶ月に渡って停滞している経済活動を再開して国の現状を打開するために、コロナや感染症と共存する「新たな日常の生活様式」を提唱してポストコロナへ移行する、ということらしい。

我が家の近所のバス停にも以前のようにバス待ちの人たち

ハバナはいきなり回復期の規制緩和フェーズ3へ。10月3日に明確な表現はなかったもののほぼフェーズ1(この時どの段階にあるかは明言されなかった)となり、2週間もたたないのに一気にフェーズ3へ飛んだ。

フェーズ3:サービス、生産活動のほぼ正常化、感染リスクを最大限考慮し、感染減少のために各予防対策を守って行動する。

細かい政策はおいといて、大雑把にいうとこれだけ。公共機関や各経済活動が再開されるが学校は先日の発表通り11月2日からで、ハバナ国際空港の閉鎖は継続。

ということは結局、6月に出された段階的緩和のクソ細かい対策はほぼ意味なし?!確か当初の予定だとフェーズ2で学校が始まって地方間の移動が可能になり、フェーズ3では空港も開いて外国人観光客の受け入れが始まるはずじゃあなかった?移行の基準である人口当たりの感染者指数がここ10日間の数値が劇的に向上した訳でもないのに、「飛び級」したのは何故??

まあ、いい。何はともあれ大前進!!

たくさんの人の往来がある旧市街のオビスポ通り、ただし観光客の姿はまだない

そのほか8月以降に感染が拡大したサンクティ・スピリトゥス州とシエゴ・デ・アビラ州は限定的な感染期のまま、上記の3州以外は回復期フェーズ3を経て「新たな生活様式」を採用する段階へ。

新しい日常の生活様式:サービス、生産活動の回復と安定。感染病監視を強化し、衛生対策の遵守と制御するとともに、新しい生活様式の採用により各自の責任で健康状態の維持につとめる。

具体的に挙げられた内容のいくつかを挙げると・・・

  • 感染病を受け入れた上で新しい生活様式を模索しながら正常化を目指す。
  • マスクは密閉した空間、学校、職場、医療保健関連施設、宗教行事、食料品生産工場などで着用義務を継続する。ただしこれらの場所で人が密集しないようであれば状況に応じて柔軟に対応することができる。
  • ソーシャルディスタンスを保つ。
  • Covid-19の症状、他の感染病の症状のある者が学校や職場へ入ることを厳しく制限する。それらの症状のある者は速やかに保健機関へ向かうこと。
  • 職場や公共交通機関などでの手や接触面の消毒は、義務とする。
  • 常時、対面で仕事をし感染の危険にさらされている労働者、特に医療関係従事者に対する保護対策を保証する。
  • 政府の臨時委員会による毎日のミーティングはなくす。本件に関する地域ごとの分析と指数のチェックは継続し週に2回の会議を実施する。
  • 毎日開催していた保健省のCovid-19感染状況に関する記者会見は、以後週1回金曜日に実施する。

要するに感染予防対策として国が国民に対して強要することは少なくなるが、その代わりに各自が自己責任で感染しないように努めて新たな生活様式を身につけましょう。ということか。

旧市街のビエハ広場、観光客はなく寂しい・・・

何れにしてもやはりコロナ以前の活気や人々の動きが戻るには、海外からの観光客受け入れが再開されないと難しそうだ。多くの個人経営者が従事するカサパルティクラル経営や土産物屋、個人経営のレストラン、タクシー、旅行代理店、こういったところの活動が始まらないとどうにも経済回復にはつながらない。数字だけじゃなくてキューバがどれだけ観光業に依存しているのか、改めて実感。

普段は観光客で賑わうカフェも、今は地元の人用に食料品を売る

キューバのコロナによる規制緩和:ハバナ、再びのフェーズ1

10月になった。

ここ半年、月が変わる度に「あぁ、またひと月去ってしまった」となかなか変わらない状況にため息が出るばかり。

キューバ国内のコロナの新規感染者はなかなか減らず、一部地方での感染再拡大などマイナス要因もまだ多い中、ハバナは10月1日より規制が緩和されてほぼ7月の第1フェーズと同じ状態に戻った。

・午後7時から午前5時までの外出禁止の解除
・自家用車および二輪車の市内移動制限の解除
・移動販売の地区外販売制限解除
・居住区以外の店での購入禁止解除
・店舗の営業時間短縮を排除し通常時間で営業
・公共および個人の商業・サービス活動の50%の定員での再開。ただしバー、ディスコ、公共およびソーシャルディスタンスを保てない密な状態になりうる個人主催のパーティーを除く。
・ビーチ解放、プールは定員の30%に制限して再開
・公共交通の再開、立ち乗車80%で10月3日より運行

一方で引き続きマスクの着用、ソーシャルディスタンスの維持等の感染予防対策は義務として、違反者には罰金が課せられ、自宅勤務を推奨し、ハバナから地方への出入りは制限され各検問所でのチェックを厳格に実施する。まだまだ全部が通常化するには程遠いけれど、公共交通が運行されてハバナ市内の移動が可能となることで気分的にもだいぶ違う。

夜間の外出規制が解除、でも夜中に街をうろつく人は以前のように多くはいないはず。Photo by Cubadebate, Naturaleza Sectrta de Cuba

そして何より待ち望んでいた学校の再開時期が発表された。

「2019-2020年度期の修了と2020-2021年度期の開始を11月2日とする」

まだ1ヶ月あるけれど、3月24日から閉鎖されていた学校がやーーーーーーーーーっと始まる!!

が、ちょっと待てよ。3月末から6月までの2ヶ月半の前年度の残りはどうやら曖昧にされたまま、通常の2ヶ月遅れで新年度が始まってしまうらしい。夏休みを除いても4ヶ月半も遅れていることに対してどこまで配慮してくれるのだろう。外出もままならず、家にこもっていた子供達が学校生活にすんなり適応できるのか・・・と普通なら心配しそうなものを親たちも含めてそんなことはまったくない。それよりも「もう学校再開して本当に大丈夫なのか?」と子供のコロナ感染を心配する声が多く聞かれる。

いやいやいや、もう再開しないとまずいでしょ。いくらみんな横並びのキューバの教育、遅れるのも進むのも一緒とはいえ、ねー。

と思っても、同調してくれるキューバ人は周りに少ない。意外に彼らは声を大きくして言ったところで一個人の力でどうしようもならないことに無駄な労力は使わないし、上からのお達しには素直に従う。今回のコロナで「社会主義国の方が規制を強制しやすくコントロールが効いて感染拡大を防げている」というような記事をどこかで見たけれど、確かに一理あるかもしれないと思ってしまうのだった。

Photo by Cubadebate, Naturaleza Sectrta de Cuba

ハバナ遠景を楽しむ、カバーニャ要塞とモロ要塞

ハバナの街は要塞と城壁で防御された都市だったが、今でもそうした防御施設の跡が残っている。旧市街散策中にはアルマス広場のすぐ横にフエルサ要塞、ハバナ湾岸をマレコンに向かって歩いていくと外海に接する付近にプンタ要塞がある。そして旧市街からハバナ湾を挟んで対岸に目をやると、高台にある灯台を備えたモロ要塞、その横に長い石垣が岸壁上部に張り付いたように見えるカバーニャ要塞を望むことができる。

プンタ要塞付近から見るモロ要塞

要塞は「戦略上の重要地点に設けられる、主に防衛を目的とした軍事施設」であるが、これらの要塞も16世紀から18世紀にかけてスペイン植民地時代にハバナの街を守るため築かれたものだ。当時のカリブ海の島々はスペインが南米各地で採掘した金銀などを本国へ輸送する際の中継地点として重要な役割を果たしていたが、キューバもそれらの財宝を狙った海賊、植民地争いをしていたイギリスやフランスといったヨーロッパ各国の攻撃から街を守るために、要塞や城壁を作る必要があった。これらの石造りの強固な施設を見るとハバナの街の置かれた当時の状況だけでなく、スペインの財力や建築技術などを見知ることができる。歴史に興味がなくても、その大きさに驚き絶壁に組まれた巧みな石造りの急勾配に要塞としての役割を実感することができるだろう。だがモロ要塞とカバーニャ要塞をオススメする理由は他にある。

要塞から見えるハバナの街だ。

オー、マイ・ハバナ!

モロ要塞はハバナ湾の入り口の断崖をうまく利用して作られた要塞、ハバナ側から見る要塞内にある灯台を含めたその姿はハバナのシンボリックな景色のひとつとしてお馴染み。要塞内のテラスの部分には大砲が添えられ当時を彷彿させるが、この一番高いところからは視界の左半分にハバナの街、右半分に青い海が広がる。入場せずに、要塞の裏を巨大な堀に沿って行くと、本体から離れて外海に突き出たようにある砲台のあったテラスに出る。ここからの眺めも絶景。

テラス状の張り出しに立つと、その向こうは絶壁。柵も何もないので気をつけて

要塞の最も高低差の大きい張り出し部を横目に、遠くにマレコン沿いの建物の並びが伸びるのが見え、夏場はその横の海に太陽が沈む絶好の夕陽スポットなのだ。反対側に目をやれば真っ直ぐな水平線、天気が良ければどこまでも青い海が輝いて見える。冬場には荒波が要塞の壁と海岸の岩に叩きつける様子が見られるが、これもまた迫力があっていい。

観光客たちもここに集まって陽が落ちるのを待つ

カバーニャ要塞は、カリブ海域で最も規模の大きな要塞。ハバナ湾側に一直線に伸びる石垣の上にあるテラスには大砲が並ぶが、有名な大砲の儀式Cañonazoカニョナッソは毎晩ここで行われ、重要な軍事関連の行事や外国軍艦の入港時などにはここでセレモニーを行い大砲を打ち鳴らす。広いカバーニャ要塞内はチェ・ゲバラの執務室ほか展示施設もあって見所は多いが目玉は、やはりここから見える対岸のハバナ市街遠景。手前の旧市街、カピトリオの光り輝く黄金のドームが一際目立つ。奥には革命広場のホセマルティ記念館の塔、平らな土地に広がるハバナの街の様子を一望できる。

大砲の並ぶテラスからハバナを望む

この要塞側から見るハバナが最高に好きだ。何度行っても大きく手を広げて、抱きしめたくなる。¡Ay, mi Habana! (ああ、私のハバナよ!)って。

Castillo de los Tres Reyes del Morro モロ要塞
入場:10:00-17:00
Fortaleza de San Carlos de La Cabaña カバーニャ要塞
入場:10:00-17:00, 18:00-21:00(大砲の儀式)
旧市街からは目と鼻の先だが、車を使って海底トンネルを通っていくか、ハバナ湾の両岸をつなぐLanchoncitoランチョンシート=小さな渡し船に乗っていかねばならない。クラシックカーでハバナ湾対岸、カサブランカ地区にある見所を回ることも可能。

カニョナッソ(大砲の儀式)、どうしてる?

コロナ感染予防対策として、空港が閉鎖、観光客がいなくなり、店やレストラン、各施設が閉まり、外出が規制され、街から人が消えてまもなく1ヶ月。3月末に始まった夜9時のAplausos(アプラウソス)=医療関係者などコロナウィルスと戦う人々への激励の拍手はすっかり定着して、毎晩9時になると街中に大きな拍手が響き渡る。最近は笛やカネなどの「鳴り物」も加わって、一層にぎやかにキューバらしさが増している感じだ。

我が家も毎晩9時になったら、窓際で拍手!

ハバナの夜9時といえば、Cañonazo(カニョナッソ)、カバーニャ要塞で行われる大砲の儀式。これはスペイン植民地時代に起源を持つ、かつてハバナの城壁にあった木戸の閉門を告げるため大砲を放つ儀式のことで、今でも傭兵スタイルの若者たちによって毎晩9時に行われている。観光客にも人気があり、年間通して大勢の人が見学に訪れる。個人的にも好きなアクティビティーのひとつで、大砲が鳴る前の一瞬の静粛と緊張、その後のお腹に響く大きな音、何度行ってもその度にドキドキしてしまう。

傭兵スタイルで行われる大砲の儀式、コロニアル時代の雰囲気

今、当然のことながらコロナ対策により、カバーニャ要塞は閉鎖している。

「果て、カニョナッソはどうしてるんだろう?」

我が家が大砲の向けられるハバナ市街と反対にあるので、通常9時の大砲の音は聞こえない。ハバナ市街へ行くこともできなくなってしまったので、自分で音を聞いて確かめることもできない。ましてや最近はアプラウソスで、大砲の音もかき消されてしまう!?

気になっていたところ、夜のニュースでその回答を知ることができた。伝統的なこの儀式はコロナに負けることなく、毎晩行われ続けている。儀式を行うのは実は徴兵中の若者なのだけれど、本来の中世の傭兵スタイルの衣装は身につけず、オリーブグリーンの軍服にマスク姿でやっているらしい。

マスク姿で儀式をおこなる様子(TV画面より)

夜9時、ハバナの街。カニョナッソとアプラウソ。コロナが収束してアプラウソが必要なくなったら、カニョナッソを見に行こう。そして大砲の音の後に、大きな拍手(アプラウソ)を送ろう。健康っていいな、いつでも何処へでも好きなように出かけられるって素晴らしい!と心の底から思いながら・・・

360度Habana、ハバナで一番高い展望台

2019 年、新年が明けた。

キューバのお正月はそっけない。家族や友人同士集まってのパーティーは大晦日の晩、0時に日付が変わるのを皆で待ち、年明けと共に「おめでとう!」の挨拶を交わす。最近はキューバ人も携帯電話を持つようになったこともあり、夜中の混線を避けて31日の昼間から「新年の挨拶」メッセージや電話があったりして、年が明けてから「おめでとう」を祝う日本人の感覚にちょっとそぐわず変な感じがする。

そして元旦は静かなもの。1月1日は新年でもあるが、キューバにとっては「革命勝利の日」という大事な祝日でもある。特に今年は1959年のその日から60周年の区切りの年ということで、何か大きな催しがあるのかと思ったけれどハバナは静かなもので、例年通りサンティアゴ・デ・クーバのホセ・マルティやフィデル・カストロの眠るサンタ・イフィヘニア墓地で式典があったくらいだった。

おなじみのチェ・ゲバラとカミーロ・シエンフエゴスの肖像。

いつもの週明けと変わらない感じで、2日にはぼちぼち仕事始め。3日、たまたま近くへ行く用事があったので今年初の革命広場へ。いつもは広場のチェ・ゲバラやカミーロ・シエンフエゴスの肖像の前で写真を撮るだけでホセ・マルティ記念館へ行くことはないのだけど、この日はまだ学校が休みの息子も一緒だったので、2005年初めてキューバを訪れた時以来、実に13年ぶりに入場した。

ホセ・マルティと記念館

ホセ・マルティはキューバ人の誰もが間違いなく尊敬するキューバの英雄だ。スペインからの独立に尽力した一人だが、フィデルもマルティを師と仰ぎ、彼の思想をもとに国を作ろうとした。そのため現在のキューバという国を知るためにはマルティの思想を知らねばならない、とも言われる。そのマルティについて様々な展示がなされているのが、革命広場にある一際目立つ高い建物内にあるホセ・マルティ記念館だ。ここでマルティに関する展示を見た後は、建物最上階の展望台へ。東西南北ぐるりとガラス張りとなっていて、標高約110mハバナで一番高いところから360度市街を見渡せる。

南、記念館の裏にある共産党本部の建物。展望台に登らないとなかなか見られない。

13年前見たハバナの風景とたいして変わっていない。今も目立つのは旧市街のカピトリオといくつかの古い高めの建物、新市街のホテルハバナリブレなどいくつかの高層ビル、北には青い海の水平線が広がり、南は遠くに山並みが見えて街の広がりが対して大きくないことが知れる。

東、旧市街方面、カピトリオのドームが見える。

2005年、カミーロの肖像がまだない。

北、右端にホテルハバナリブレ。

2005年。建物の様子はほとんど変わらないけれど、今より木々の緑が小さい。

お天気が良かったこともあり、キューバらしい青い空の下のハバナを見るのはなんとなく晴れ晴れとした気持ちになって「正月らしくていいかな。」と思った。