キューバと日本

キューバと日本、遠く離れた国同士ではあるけれど、二つの国の関係はとても良い。政治的、歴史的な関係はもちろんのこと、キューバ人は日本という国や日本文化、日本人に非常に関心があり、多くは日本をとても素晴らしい国としてリスペクトしてくれ、俗に言う「親日」であると感じる。社会主義つながりで中国やベトナムとの関係が深いけれど、同じアジアの国でありながら一般市民レベルでも意外にちゃんと各々の違いも認識されていて、その上で日本を評価してくれるのは日本人として嬉しい。

日本の発展したテクノロジーの高さについて「すごいよねー」と羨望されることがよくあるけれど、日本文化に関心を持って「日本大好き」という人も多い。今や世界中にいる日本のアニメ、漫画、ゲームに影響された「オタク」たちもたくさんいる。そして彼らの中には日本語に興味を持って勉強し、驚くほど上手に話す若者もいたりする。

スポーツでいえば野球、今季も日本のプロ野球シーズンが始まってからは日本で活躍するキューバ人選手の成績が連日ニュースで流れる。両国の野球を介した親善が盛んなのはよく知られた通りだ。柔道は世界レベルで有名だし、空手道、剣道、合気道の教室もたくさんあるし、先日は居合道をやっている人がいてびっくりした。

息子の通う空手の教室がハバナ郊外に作った新しい道場。沖縄発祥なんで沖縄風?

歴史的に見ると、キューバを初めて訪れた日本人は支倉常長であるとされる。支倉は1613年伊達政宗の命でローマ法王へ謁見するためローマを目指したその途中でキューバ、ハバナへ寄港した。

支倉常長の像は現在、ハバナ旧市街のハバナ湾沿いの道の脇に立ちキューバ人の間では「初めてキューバへ来た侍」像として知られる。

その後今から120年ほど前に日本から移民としてやってきた人たちがおり、今でも千人ほどの日系人がハバナや青年の島に暮らす。日本と国交樹立してからは今年で92年。ちなみに駐在の方なども含めキューバ在住日本人は、近年90〜100人で推移しているそう。

2018年には日本と国交樹立90年、日系移民120年で日本大使館主催の展覧会も開催された。

政治的な関係でいうと、日本はキューバに対してODAその他の形で多くの支援を行なっている。最近では日本の稲作用の農機具が導入され、早速キューバ各地に配置されたとのニュースがあった。米を主食とするキューバでは、米の自給率をあげるためにも日本から多くの援助を受けて近年その効果が上がっているとのこと。また今、ハバナ市内では昨年日本から送られたオレンジ色のゴミ収集車がそこら中で見られるし、消防車も日本から寄贈されたものが活躍している。

キューバで働く日本のくるま、その1
キューバで働く日本のくるま、その2

一方、一般の企業がキューバに投資しようという動きはアメリカとの国交回復後、一瞬盛り上がったがその後は萎んでしまった。日本人観光客はここ10〜15年で随分増えた。特にアメリカとの国交回復でこちらも「行くなら今!」的なコピーでブーム到来の兆しはあったが、その後落ち込むと言うほどではないにしろ伸びは期待したほどでもなく・・・これらの背後には日本とアメリカ、アメリカとキューバの関係が大きく関わっていることは言うまでもない。

あるカサ・パルティクラルの壁にあった日本人観光客の想い出。キューバへ行ってみたい日本人はまだまだ沢山いるはず!

TVでも日本の番組を時々やっている。アニメだけでなくドラマ、映画、ドキュメント番組まで、『おしん』はもう何度放送されたことか。年配の人だと日本=黒澤明、七人の侍、座頭市という回路の人も多い。そして黒澤を口にする年齢のおじさんの中には日本人と一緒に漁をした体験を持ち、船長と醤油で刺身を食べたことを自慢してくれる率も高い。実際に1960〜70年代には日本がキューバへ漁業関連の技術提供や指導を多くしていた。

それからキューバ人が日本について知っていることで注目した欲しいのは、ヒロシマ・ナガサキの認知度だ。キューバでは学校で子供達に日本の被爆体験について教えられる。毎年8月6日と9日は新聞なりTVなりでなんらかの報道がされ、多くの人がこの日付まで含めてヒロシマ・ナガサキを知っている。

こうやってみるとキューバにいながら、日本に遭遇する機会は意外に多いし、それもあって日本人がキューバについて知っているよりずっとキューバ人は日本について詳しい、と言えるかもしれない。

コロナ禍、おうちでTamalタマール作り

最近のキューバ、コロナの様子。ここ数日ハバナと近郊で2つのクラスターと海外帰国者の感染が重なって、もう2ヶ月ぐらい見たことのない2桁新規感染者に数字にギョッとなり、ハバナは規制緩和第1段階からなかなか次へ進まない。市内を自由に動けるようになったとはいえ、まだ仕事もままならず通常営業している場所もほとんどない上、このぶり返しで「家こもり生活」継続中。

で、時間はたっぷりある。

そこで普段はあまり見ない新鮮な生のトウモロコシが、手に入ったのでTamalタマールを作ることにした。タマールはトウモロコシをすり潰して味付けし、トウモロコシの皮で包んだものを蒸すか茹でるかして作る。食事と一緒に食べることもあるけれどおやつにもなるファーストフードで、街中でも売り歩いているので普段はこれを買って食べることが多い。実は我が家で作るのは初めて。よその家で作る様子を見たことはあるけれど、手順もよく覚えてない。せっかくなのでレシピを残そうと記録をとってみた。

材料:トウモロコシ、トウモロコシの皮、玉ねぎ、ピーマン、ニンニク、塩、胡椒、サラダ油、トマトピューレ(お好みで)
粒状にしたトウモロコシを挽いて潰す。今回はミンチマシーンを借りてきてグルグル、一緒に刻んだピーマンも入れて潰した。
味付け用のみじん切りにした玉ねぎ、ニンニクをサラダ油で炒め、塩・胡椒、好みでクミンなどのスパイスを加える。より風味を出すために豚肉の脂身片やチチャローネス(豚の皮の唐揚げ)を入れたりするのだけれど、今回はベジタリアン仕様でトマトピューレを少々入れた。これを潰したトウモロコシに加えてよく混ぜる。
トウモロコシの皮で出来上がった具材を包む。1つのタマールに2枚の皮を使用。まず1枚を円錐状に丸めて先の尖った方を上に折り曲げて袋状にし、具材を適量入れる。
もう1枚も同じように円錐状にして、今度は幅の広い方を下に被せるようにして蓋をする。
皮が外れて形が崩れないよう真ん中を紐で縛る。
たっぷりのお湯で茹でる。今回は圧力鍋を使って30分ほど。蒸してもOK。
できあがり!

素朴な味わいが何とも言えず美味。名前が違うかもしれないけれど、キューバだけでなくて中南米どこにでもあるポピュラーな料理。トウモロコシを潰すのが少々面倒だけれど、意外に簡単。自分で作れば具材のアレンジや塩加減も調整できてより一層美味しい。皮で包む作業は子供と一緒にやっても楽しい。

コロナ禍、「家こもり生活」で料理に関しては新たなチャレンジや学びあり。いくつになっても挑戦と学習は大事、いいこといいこと!

26 de julio ベインティセイス・デ・フリオ

7月26日はキューバの祝日だ。

Día de la Rebeldía Nacional:国民蜂起の日

キューバにとってこの7月26日という日付は特別な意味を持つ。今から67年前の1953年7月26日、フィデル・カストロらがサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃した日であり、キューバ革命はここから始まったとしてその後の一連の反政府運動と組織をMovimiento-26 de julio (M-26-7  7月26日運動)と呼ぶ由来となった象徴的な日なのである。キューバを旅行中に革命関連の博物館や施設を訪れるとこの数字の旗や腕章に気付くだろうし、7月のこの日近くなら政府関連の建物に大きな赤と黒のM-26-7の旗を目にするかもしれない。

ある年の7月26日、ハバナ旧市街を歩いていて目にしたM-26-7の旗。

1952年、フルヘンシオ・バチスタ軍曹は1940〜44年に続き2度目の政権を狙っていたが、選挙で当選の見込みがないとわかるとクーデターを起こして大統領となり政権を握った。この実施されなかった選挙へはフィデルも立候補を予定していたのだが、選挙で当選して政治家として政府に立ち向かうことを阻まれ、さらに弁護士としてバチスタ政権成立の不当性を提訴するものの相手にされず・・・となると武装闘争へと反政府運動の方向転換をするしかなかった。

フィデルはアベル・サンタマリアらとともにハバナで若者たちを集め秘密裏に計画を進め、最初の襲撃の対象をサンティアゴ・デ・クーバにあるモンカダ兵営とした。ハバナにしなかったのはサンティアゴの方が政府軍の勢力が弱く距離があることから速やかに兵力を送るのが困難なこと、とはいえキューバ第2の規模の重要な軍事拠点ということで襲撃によるインパクトは大きいと想定されたこと、さらにこれを契機に国民を蜂起させるためにも伝統的なオリエンテ(東部地方、スペインからの独立戦争もここから始まった)の気質が有利に働き、たとえしくじってもシエラ・マエストラの山中に入って戦いを継続可能であることを考慮して決めたという。この時点でモンカダ兵営襲撃が失敗しても、その後どのように戦いを進めていくかまで見据えた計画であったことがわかる。

現在のモンカダ兵営。建物外壁には銃弾の跡が残る。革命後は小学校となったが、一部は博物館として利用されていて見学可能。(写真はグランマ新聞より)

そして、1953年7月26日。前々日の24日は市制記念日、当日はサンティアゴの守護聖人サンティアゴの祭日であり、毎年この前後にサンティアゴ・デ・クーバのカーニバルが行われる。この年の7月26日はちょうど今年と同じ日曜日。土曜の夜は祭りも最高潮に盛り上がり翌日は警察や兵士たちも二日酔いと疲れに見舞われ警備が手薄になるであろう隙を狙って選ばれたその日の早朝、フィデルたち122人は3つの部隊に別れて兵営および隣接する病院、裁判所襲撃を決行した。だが大学を出たばかりの若者や職人などの貧困層によるわずかな武器を手にしたグループは武装抗争の経験などもちろんない上、ハバナ出身の彼らは土地勘すらなく目的の兵営にたどり着くにも往生するという全く不利な戦況だった。そんな状況で400人余りの政府側の兵士たちの攻撃にまともに立ち向かえるはずもなく、アベル率いる部隊とフィデルの弟ラウル・カストロ率いる部隊が一旦はそれぞれ病院と裁判所の占拠に成功したものの、兵営本体を狙ったフィデルたちは運悪く兵営周辺の警備隊に見つかって内部侵入前に銃撃戦となってしまった。そして見極めたフィデルは早々に退陣を決め命令を下した。

襲撃そのもので亡くなったのは10名にも満たなかったが、その後の逃走中に多くが捉えられ約半数が拷問を受けて処刑され、その中にはフィデルとともに先頭に立ってグループを率いたアベルもいた。フィデルはシエラ・マエストラへ向かう途中で捉えられ、処刑は逃れたものの投獄されてしまう。そして同年10月の裁判で襲撃グループのリーダーとして禁錮15年の判決が下り、ピノス島(現在の青年の島)のモデロ監獄へ送られた。

フィデルたちの7月26日のモンカダ兵営襲撃は失敗に終わった。

モンカダ兵営襲撃後の裁判で、フィデルは被告人でありながら自分で自分を弁護し本のタイトルにある「La historia me absolverá 歴史は私に無実を宣告するだろう」という有名な言葉を残した。

けれどこの時のバチスタ政権が彼らに対して行った残虐な行為が明らかになり、それまでアメリカ資本の基盤に私腹を肥やし独裁政治を行ってきたバチスタの下で、貧困に苦しむ多くのキューバ人たちの不満が拡大し反バチスタ機運を押し上げ、国民を巻き込んでの運動へと発展していったのだ。フィデルは収監中も裁判の陳述を文章にまとめ、仲間を使って印刷して市民の手に渡るようにするなど革命へ向けた動きを進めていき、これに同調した人々がフィデルの恩赦を求め、それを政府も認めざるを得ない状況となって1955年5月15日、フィデルは仲間とともに釈放された。

その後フィデルはメキシコへ亡命してキューバ革命へ向け新たな組織を結成し、本格的な戦いへ向けた準備を開始するのである。1956年12月、82人でグランマ号に乗ってキューバ東部へ上陸、それから先はシエラ・マエストラでのゲリラ戦を展開して徐々に国民を味方につけ西へと進み、1959年1月1日のバチスタ国外逃亡をもっての革命軍勝利へとつながっていった。

こうしてみるとまさしくキューバ革命の起点はモンカダ兵営襲撃であったと言えるが、その後の革命勝利がなければ一人の若者が起こした反政府勢力の襲撃未遂事件としてキューバの歴史に残るかどうか、といった出来事に過ぎなかったかもしれない。革命成功があってこその26 de julio ベインティセイス・デ・フリオ 、国民蜂起の日なんだと改めて思う。

この時期の新聞には26 de julioの記事がいっぱい。

今では7月26日前後は土日を合わせて連休となるように祝日が設定され、26日当日はその年の祝典開催州で様々なイベントが行われる。が、今年は言わずと知れたコロナ影響でこれらの大々的なイベントは中止となり、小規模な祝典のみ開催された。

旬の食べもの、Mamoncillo マモンシージョ

Mamoncilloマモンシージョという日本にはない果物がキューバにある。ちょうどマンゴーと同じく夏場のこの時期が旬、時期はマンゴーより短く7月から9月のまさに真夏の果実でキューバ全国どこでも目にすることができる。

大きな枝のよくはった樹に、直径2cmほどの丸いプラタナスのような実がぶら下がるようにしてたくさんなる。硬い皮は中身が熟してもあまり変わらず緑色なので食べ頃を知るのが難しいけれど、市場や街角で売られているものはもうすでに食べられるものなので大丈夫。

こんな感じで小枝を束にして売られている。

食べ方は皮を軽く噛むとパリッと一文字に切れ目が入るので、2本の指で切れ目の両横をつまむ。すると果肉がポロっと出てくるのでそのまま口へ。真ん中に大きな種があるので、その周りにへばりついた果肉を口の中でチュパチュパと吸って食べる、というか果汁を   吸い取る感じ。最後はペッと種を出す。少しアクがあるけど酸味はなくとにかく甘い。歩きながらでもつまんで食べられるお手軽さもあってみんな大好き、この時期にはそこら中にマモンシージョの皮と種が散乱する。でも大きな種が喉に詰まると危ないので、小さな子供には与えない。あとこの果汁が服につくとシミになって、どうやっても取れないので要注意!我が家にも茶色いシミのできた手ぬぐいやらTシャツがある。

食べ始めると止まらない、次から次へと手を出したくなるマモンシージョだが、Champolaチャンポーラと呼ばれるジュースにしても美味しい。果肉を種から取るためにちょっと変わった作り方をする。

まずはひとつひとつ皮を外して、大きめの容器に入れる。

砂糖をたっぷり加える。ここまで入れなくても十分に果汁は甘いのだけれど、そこはキューバ式。

ヘラなどを使ってひたすら混ぜる。

種から果肉が剥がれて、白っぽいシロップ状になったらできあがり。少し水を加えてジュースにして召し上がれ!残った種にもまだ果肉が付いているのでさらにチュパチュパ可能。

結構手間なので、ひと夏に何度も作らないけれどいつものグアバやマンゴーのジュースに飽きた時に嬉しい味。

旬の食べもの、アボカド

7月になるとアボカドが出回り始める。もうこの時期はどこへ行ってもアボカド、どこの食卓にアボカドというほどキューバで今が旬、ポピュラーな食べ物だ。野菜が少ないキューバの食生活で、この時期手に入りやすく好きなだけ食べられるのが嬉しい。まだまだ旬のマンゴーと合わせて夏の好物だ。マンゴーはあと1ヶ月、8月末ぐらいまでだけれど、アボカドは10月ぐらいまで楽しむことができる。

旬にキューバを訪れたら、必ず一度は目にして口にするチャンスはあるけれど、見た目があまりに違うから街で売っているのを見てわかる人はまずいないしアボカドと知って驚く人も多い。それほどキューバのアボカドは、日本で知られているそれと違う。

日本でも最近は栄養価の高い野菜として注目され普通にスーパーで手に入るようになったが、多くはメキシコ産またはチリ産であるはずだ。鶏卵より2回りぐらい大きくて黒っぽい深い緑のゴツゴツした少し厚めの皮、大きな種、黄緑色のクリーミーで濃厚な身のものがアボカドと認識されているんじゃないだろうか。

でもキューバのアボカドは違う。

これは長細いタイプ。かなりの大きさになる。

まずデカい。いくつか種類があるので大きさも様々だが、小さいものでもソフトボールより少し大きいぐらい、大きいものだと長径が25cmほどになる。そして皮は艶やかな緑色でゴツゴツしていない。中には少し紫がかったものもある。皮が薄いので種に垂直に切れ目を入れて切り離した後は、ペロリと手で剥くことができる。

真ん中に大きな種。この種が少し動くのが感じられるようになったら食べ頃。

味は黄色味の濃い緑、日本でお馴染みのものよりさっぱりして水々しいものが多く、種類によってはもう少し濃厚なものもあるが、ネチョっと感はない。食べ方はいたってシンプル、特に他の具材と合わせることもなく塩とあればレモンをかけてサラダで食べる。お隣の国、メキシコのようにワカモレ(塩・ニンニクなど調味料を混ぜたディップ)にすることもない。

家の庭にもアボカド。

10年以上前にこのアボカドの種を日本へ持ち帰って植えてみたことがある。意外に簡単に芽は出て育ったが、寒さに弱いので冬の間は部屋に入れたりビニールで囲って防寒したりで何度か冬も越した。植木鉢だったのでそれほど大きくはならなかったけれど、日本でも実家のある静岡のように暖かいところだと実をつけることも可能だとか。最近は四国など日本でもアボカド栽培をしているところがあると聞く。

ちなみにアボカドは桃栗3年柿8年の柿と同じく8年ぐらいしないと実をつけないらしい。キューバのアボカドの木は高さ10m以上に育ち、ワサワサと実が沢山なっているのは壮観だ。大きな木だと1シーズンに200〜300個ほど熟すというから凄い。

我が家の食卓にもこれからしばらく、毎日アボカド。キューバで感じる数少ない旬をいただきます!

加速するキューバ人の行列好き?!

コロナ禍、街で見かける行列がより目立つようになった。キューバの行列に関するネタには事欠かないことについて以前書いたことがあるが、ここにきてまた新たな伝説となるような事態が起きている。

キューバの物不足は深刻で、時にはトイレットペーパー、洗剤、サラダ油といった生活必需品がほとんど市場に出回らなくことがあり、その後入荷されると店の前はその品物を求める人の大行列ができるのは、キューバでは毎度おなじみの出来事だ。

それが最近ハバナでは毎日、ありとあらゆるところで大行列を目にするという当たり前の光景となっている。

コロナ感染予防対策で多くの店が閉まっている上、人々の行動範囲は限られているから余計に行列ができやすいというのもあるが、その行列の先にある品物も食料品や衛生用品といったものがほとんどで、入荷状況もより限定されているように思う。ここ1ヶ月に我が家のある団地の店で売られたものといえば、

肉類:鶏肉、ソーセージ類、挽肉(なんの肉だか不明)

野菜類:バナナ、芋類、かぼちゃ、パパイア、マンゴーやグアバなどの果物、アボガド、ナス、ニンニク

その他食品:サラダ油、輸入品のりんご、トマトソース、炭酸飲料、パック入りジュース、ヨーグルト、ツナ缶

衛生用品:トイレットペーパー、洗濯洗剤、消毒液(漂白剤)、デオドラント

このほか配給品として、米、パン、砂糖、塩、豆類、コーヒー、鶏肉、ハム、卵、石鹸、歯磨き粉。

これくらいのものしかなくても、これしかなかったら皆必死に手に入れようとする。その結果「品物がなくても行列ができる」という現象が起きているのだ。

全くもって??!!

だとろうが、つまり「もしかしたら鶏肉が入荷するかもしれないからとりあえず並んで待とう」というわけ。これがエスカレートして、前日の夜から行列ができる事態となってしまった。もちろん全ての人が徹夜するわけでなく、その役割を買って出る人がいて家族や友達のために寝ずの番をする。中には順番を「売って」商売をする輩も出現する。そして、いざ何かが入荷した!となると瞬く間にその情報が伝わり、実際に行列をした人の何十倍という人がそこら中からワサワサとやってきて、物凄い人の列が形成される。どう見ても超密状態である。

店頭での混乱を避けるため、少し離れた公園にてまずは行列形成

この行列を制御するために店の人だけでなく、警察数名と地域の役員(キューバには日本の自治体に似た組織がある)が立ち会って大騒ぎ。警察は全ての人に品物が行き渡るようにするためと転売防止のため、同じ人が続けて同じ商品を購入しないように全員の身分証明書をスキャンして保存、その管理のためのアプリまで今回開発されたそうだ。さらに行列を乱さないようにまず整理券が配られ、これにしたがって順番に店に入って買い物、おひとり様当たりの購入数はもちろん限定。

公園の行列から、10人ずつ整理番号順に店の前へ向かう。なぜかここでは間隔をあけて整列させられる。
本日の整理番号
店内も人数制限。売っているのは本日の入荷商品鶏肉とレジの後ろに並ぶ商品のみ

もうホント、コロナのおかげでキューバの行列に新たなルールが次々に加わって訳がわからない・・・もちろん好きでやってる訳じゃないとわかっている。が、申し訳ないけれど、外国人でモノに不自由なく生きてきた私にはお手上げなので夫に頑張ってもらうしかない。

本日の勝利品「鶏肉」お一人様2袋限定

キューバの物不足の原因は何か?

一番はアメリカの経済封鎖と言わざるを得ない。キューバは革命後、アメリカの制裁を受け続けている。単純にアメリカから製品や原料が入ってこないというだけでなく、原材料をアメリカで調達して他国で生産された品物の輸入、キューバへの送金、キューバへの支援等あらゆるものが制限されている。アメリカがダメなら他の国から、と思ってもキューバを助けようとするとその国がアメリカからの制裁を受けることになってしまうから、それもままならない。また小さな島国であるキューバは資源に恵まれているとは言えないので、自国の産業発展のためには原材料と燃料(原油)を輸入するしかないのだが、同じ理由でありとあらゆる産業の発展が制限される。キューバが特に力を入れ、世界的にも名高い医療分野でも優秀な医師は多く育成されても、最新の機材を導入できない、病院の設備を整えることができない、といったことが起こる。また多くの特許を持つ医薬品も原材料が入手できないため、生産がストップしている製品が数多くある。病院で薬を処方されても薬局で入手できないのは日常茶飯事、自国で生産できるはずの医薬品をなぜかアメリカに住む家族に頼んで送ってもらう、という皮肉な事態が起きる。

コロナだけじゃない、キューバの感染病予防

コロナ予防対策については、もう嫌という程ここ半年近く耳にしてやってきた。その中には独特の医療体制を持つキューバ独自のものもあって、ひとつがPesquisaペスキサと呼ばれる徹底的な感染発見のための調査で、具体的には各家庭を訪問しての健康状態をチェックするシステムだ。最近は回数が減ったけれど、コロナ感染が拡大していた頃はほぼ毎日のように医学生によるペスキサがあった。でもこれは以前からあったもので、特に目新しくもない。亜熱帯にあるキューバではほぼ1年中蚊がいて、デング熱、チクングニヤ熱、ジカ熱といった蚊を介して感染する病気に注意しなければならない。特にデング熱は年間通してしょっちゅうといっていいほどあちこちで流行っているので、その集団感染が確認された時などは拡大防止のために、ペスキサが実施され

「熱のある人いませんかー?」

「下痢してる人いませんかー?」

「デング熱流行ってるんで気をつけてねー」

と各家庭を訪問するというわけ。

グランマ新聞記事より

蚊を介する病気がどうやって感染拡大するかイマイチよくわかっていなかったのだけれど、人→人感染はないが、人→蚊感染はあるので病気になった人を刺した蚊が別の人を刺すと感染する可能性がある、というわけで感染した人が感染源の蚊を増やさないように隔離政策がとられるわけだ。これがまた徹底していて発熱や下痢の症状があってデング熱などに感染の疑いがある人も、即入院して隔離。デング熱の場合、検査をして病気が確定できるのは症状が出て6日目ぐらいだそうで、感染病専門病棟で最低1週間はお世話にならなければならない。特に子供の場合に発熱&下痢のダブル症状があるとすぐに何らかの感染病が疑われて、否応なしに即日入院となる。これで息子もすでに過去2回の入院経験があるが、付き添いの親は、デング熱の疑いのある子供たちばかりが入院する病棟の1室で一緒に寝泊まりしなければならないという無茶苦茶リスクの高いサバイバルを余儀無くされる。ちなみに息子はいずれもデング熱ではなく、2日目にはケロっとしているような状態だったがどんなに頼んでも退院させてはくれなかった。

こんな感じなのでコロナでも感染の疑いのある人、感染者と接触した人もすべて隔離施設へ入れられることは大げさとも感じず当然の措置と思われた。

それからもちろん病気を運ぶ蚊そのものを退治することも大事なので、特に夏場は蚊撲滅キャンペーンを掲げてFumigaciónフミガシオンがあちこちで大々的に実施される。

なんだそれ、 フミガシオン?!

は以前記事にした通り、殺虫剤の煙を撒き散らして燻蒸すること。近所でデング熱患者が出たとかで、そのフミガシオンがここ3日間連続で我が家の建物で行われた。

ぼぼぼぼぼおおーーーー!

と、いう噴射音が徐々に近づいてきて、殺虫剤の匂いが漂ってくると順番は近い。急いで部屋の中の洗濯物をバスタオルやシーツで包み、台所の食べ物はとりあえず冷蔵庫に突っ込み、食器やなんかも布や新聞紙で覆い、窓はきっちり締めて準備完了。

台所はこんな感じ。

フミガシオンのバキューム砲を持ったおじさんがきたら、部屋中に思いっきり煙を発射してもらう。

フミガシオンのバズーカ砲!
見る見る間に部屋中が煙でいっぱいになる。

で、人は皆追い出されて建物の外で待つこと30〜40分、そして部屋に戻ると床が油っぽくヌルヌルになっているので、モップでざっとお掃除が待っている。

人騒がせなフミガシオン、その効果は抜群?とは言い難くゴキブリは確かに駆除されるのだけれど、蚊は・・・その場にいないと殺されないからね。夕方にはフワフワとどこからともなくやってきて今夜もひとつ、ふたつ刺される覚悟で眠りにつくのだった・・・

団地の中にあるフミガシオン部隊の基地『病気媒体となる害虫駆除と戦う部署』

キューバのコロナによる規制緩和:ハバナ第1フェーズへ

7月3日からハバナもポストコロナへ向けて第1フェーズへ移行した。キューバの場合、そもそも外出禁止とはされなかったが、バス等の公共交通機関が運休となり学校も休校、ほとんどの店やレストラン、役所、企業が閉鎖となると多くの人が出歩くことがなくなり、実質的に外出自粛が「強制」される形となった。今回、第1フェーズに移行したことで一番大きいのは公共交通が運行再開だろう。自家用車が普及していないキューバでは、バスや乗合タクシーが一般的な移動手段であり、これなくしてはハバナ市内とはいえ自由に移動することは難しい。

我が家からハバナ旧市街まではバス停2つわずか10分の距離なのだが、途中ハバナ湾の下を通る海底トンネルを通らなければならない。このトンネルが曲者で徒歩と2輪車の通行が禁止されており、頑張れば歩いて行ける距離なのに車がないとトンネルの向こうへ行くことができないのだ。だからこの3ヶ月間コスタから遠くに見えるハバナの街を見ながら再度訪れる日を待ちわびていたわけだが、ついにその時がやってきた!

週明けを待って久しぶりにバスに乗ってハバナ旧市街へ。

いつもギュウギュウ詰めの身動きができないほどの混み具合のバスだが、現在乗客は座席100%、立った状態50%以下に制限されている。運行量は通常の50%と聞いていたので、すんなり乗ることができないのではないかと思っていたけれどバス停で待つ人の数も普段に比べたら格段に少なく、行列も待つこともなく乗車、いつもならバスが来ると我先に乗り込んで大騒ぎとなるいつもの風景が嘘のようだった。車内も立っている人が数人いるくらいでキューバ人の言うところのVacíoバシーオ=ガラガラ状態。

そして旧市街。

普段なら地元の人に混ざって観光客が溢れるオビスポ通りも、それほど込み合っていない。ただキューバ人用の日用品を売る店の前には行列ができていた。第1フェーズで個人経営の店も感染予防策をきちんと取っていれば営業可能となったはずだが、主に観光客を相手にしているレストランや土産物屋は閉まったまま。

ホテルもまだ営業しておらず。

旧市街観光では誰もが訪れるメインの広場、アルマス広場では地元の人が日陰で座っておしゃべり。

サンフランシスコ広場にある名物な銅像El Caballero de París(パリの紳士)も1人寂しく佇む。

国営カフェやレストランは一部営業を始めていたが客はおらず、テラスも無人。

ヘミングウェイが通ったバー、ボデギータ・デル・メディオとフロリディータもシャッターを降ろしたまま。

旧市街はやはり観光客がいないといつもの賑やかさは戻ってこない。

それでも3ヶ月ぶりの散策は、嬉し楽しで心踊った。もっともっと歩いてできれば知人を訪ねたりもしたかったけれど、長期の家ごもり生活で真夏の日差しの中歩く体力がすっかりなくなっていることに気付き早々に切り上げた。

絞めはオビスポ通りの2ペソ(約8円)アイスで。ペタッと貼られた注意書きには「人が密集していないところで食べるようお願いします」

街にはコロナ前ほどではないけれど人が戻ってきた。何よりも数日前と違うのは、自粛期間に全くいなかった子供たちを屋外で見かけるようになったこと。マスクをしたままサッカーしたり、自転車に乗ったりする子らを見て思わず笑顔になる。

我が家の近所のコスタも、解禁日にはわんさか人がきていた。これからは堂々と水遊びできるようになったのはいいけれど、これまでのこっそりプライベートコスタが楽しめなくなったのは少し残念かも・・・

キューバのコロナによる規制緩和:観光再開

6月18日にハバナとマタンサスを除く地方の州でコロナ感染予防対策の規制緩和が始まり、7月3日にはハバナも規制緩和開始、第1フェーズへ移行した。同時に地方ではマタンサスを除いて第2フェーズへ移行、徐々に日々の生活が正常へと向かっている。とはいえ、世界中で言われているようにコロナ以前に全てが戻る訳ではなく、コロナ後は新生活様式とやらに従うことになるらしい。これもまだ世界各地でコロナの感染は拡大中で、果たしてどこへどう向かっていくのか誰にも分からず皆で模索しながら、ということだろうけれど。

キューバの場合、社会主義体制をとっていること、保健医療重視で国民の健康生活の保証が第一であることから、経済優先の他の国とは重点事項が異なり、当然これに沿った政策が取られる。これまでのコロナ対策を見てもその特徴には「らしさ」が現れていて、もっと世界的に注目されてもいいのになあ、と思う。

規制緩和も国民を感染病から守ることが何より大事で焦らずゆっくりといった感じになるのだろうが、それでなくてもアメリカの経済封鎖で苦しい国の経済状況(もちろんそれだけではないけれど、やはり影響は大きい)を打開するためにも、主要産業である観光業を可能な限り早くどうにかしたいところだろう。これはコロナで観光ゼロという想像し得なかった状況、そしてこれからも世界の情勢からどうなるかなかなか先の読めない状況からいかに回復するかということであり、自分たちの努力だけでは何ともならない部分も大きいのが辛い。

そんな中、先日発表された内容に沿って第2フェーズに移行した地方では、州を越えた移動が可能となりキューバ人の国内観光が本格化し、さらに外国人観光客の受け入れが始まる。経済面でいえば、直接の外貨獲得手段となる海外からの客が戻ってこなければ話にならない。こちらまずはCayo(カヨ:キューバ本島の周りをとりまく数々の離島群)でのリゾート観光から再開され、北岸のCayo Santa Maríaカヨ・サンタマリア、Cayo Guillermoカヨ・ギジェルモ、Cayo Cocoカヨ・ココなどが対象となる。これらはもともと立地的にも離島の隔離リゾートであるので、最寄りの国際空港へ乗り入れてしまえばキューバの一般国民とは全く接触なしで訪れることができる。今回観光客は直行チャーター便で到着して空港からはホテルへ直行、Cayoカヨ内から出ることは禁じられている。到着時には全員のPCR検査と検温を実施して、ホテルには感染病専門医と看護師を配置、ホテルの従業員は7日間勤務の後、7日間自宅隔離で簡易検査を実施するという徹底ぶりらしい。またこの間キューバ人はこれらのホテルを利用できず、宿泊者数も制限される。すでにいくつかの国や地域を対象にツアーの販売を開始しているそうだけれど、まだ第一便、つまりコロナ後初の外国人観光客がいつ到着するのかは未定とのことだった。これらのリゾート地にリピーターの多いカナダからの客を期待し、チャーター便もカナダの航空会社などを予定している。

この第2フェーズではまだハバナ空港は一般航空便の発着はなく、入国者は在キューバの帰国者に限定される。そのため実質的な国境再開は第3フェーズまで待たねばならない。予定ではこの段階になると、各国からのフライト、一般旅行者がどの空港・港からも入国できるようになり、感染予防措置をとった上ですべての宿泊施設やレストラン、娯楽施設等が再開、州を越えた移動はもちろん旅行会社主催のツアーも催行され、カサパルティクラルの利用も可能となる。ほぼ以前と同じ形でキューバ旅行ができるようになるわけだ。ここまできてやっと観光業の再開と言えるだろう。といっても果たしてコロナ以前のレベルまで観光客が戻ってくるのはいつになるやら、特に個人経営者として観光業に携わっている人たちは、観光客の数が直接生活基盤と関わってくるから深刻だ。

でもキューバ人はきっとへこたれない。ここ1世紀弱で、世代ごとにキューバ革命前、ソ連崩壊後の特別期間とドン底を経験して、今もアメリカの制裁を受けながらも「らしさ」を失わずにやってきたのだから。今回は、観光業がポストコロナの経済的な柱となるべく早期回復して、これまで以上に盛り上がりを期待して。

¡Viva Cuba! ¡Venceremos! キューバ万歳、打ち勝つぞ!

フォトジェニック・キューバ

世界中にフォトジェニックな場所は数あれど、キューバの「素敵な写真が撮れる度」今でいう「インスタ映え」はやっぱり格別だと思う。街並み、自然、人物、どれを撮っても間違いなく絵になる。中でも街並み、フォトジェニック大賞都市部門があったら上位入賞は硬い。

自分自身、最近ではほとんど写真を撮らないし、スマホだけでカメラすら持たなくなってしまったけれど、いろんな人の撮るキューバを見る度にそう思う。そして写真に収めなくても毎日その景色の中にいて、ハバナの街中で面白いカットを楽しみながら散歩するのが何よりも好きだ。もちろん、時にはスマホを出して記録してみるけれど自分の腕では「言葉」を添えないと、何かを伝えることは難しい。

そんなハバナの街で、記念の写真をプロのカメラマンに撮影してもらうフォトセッションに何度か同行したことがある。多くは新婚カップルのウェディングフォト、男性はタキシードだったり少しカジュアルな感じだったりするのだけれど、女性はほとんどがドレスを着て臨むので、撮影しながら街ゆく姿は嫌でも目立つ。慣れないモデル体験と皆の目線とで、最初はぎこちない二人も、プロカメラマンのリードと道ゆくキューバ人達の「¡Felicidades! おめでとう」の声に少しずつ緊張がほぐれて、自然な笑顔が出てくる。どこを切り取ってもバシッとフレームにハマるハバナの街を、モデルになった気分で歩きながらの撮影そのものが素敵な想い出になる。

モヒートで有名なバー、ボデギータ・デル・メディオ前で。

旧市街で会ったバレエ学校の子供達とポーズ。

コロニアルな建物の中へお邪魔して撮影も。

クラシックカーも思いのままに使って。

青い海をバックにビーチを裸足で、手をつないで。

沈みゆく夕日とハバナの街をバックに。

こうやって1日一緒について回って写真に収まる二人の姿を見ていると、もう完全に花嫁の母の気分になってくる。

このハバナでのフォトセッション、他では絶対にない唯一無二の写真が撮れることはもちろん、旧市街など主な見所を巡りながらの撮影となるので、市内観光も一緒にできてしまう(しかも荷物持ち兼ガイド付き!)という、まさに1粒で2度美味しい企画なのだ。ウェディングフォトでなくても、カップルでなくてもOK、せっかくこんなにフォトジェニックな街に来たのだから、スマホのセルフィ−だけでなく少し時間をかけて想い出作りをするのもいい。パパッとSNSにアップして終わりではなくて、引き伸ばしてプリントして部屋に飾りたくなる写真になるはず。そしてその写真を見る度にキューバを想い出してもらえたらすごく嬉しい。