心揺さぶるイスラ・デ・フベントゥ(青年の島)

65年前の1955年5月15日、モンカダ兵舎襲撃の罪で投獄されていたフィデル・カストロが同士らとともに恩赦を受けて釈放された。モンカダ兵舎を襲撃した罪で1953年10月からこの日まで、フィデルらはイスラ・デ・ラ・フベントゥ(青年の島、当時のピノス島)にあるプレシディオ・モデロ刑務所へ約19ヶ月に渡って収容されていた。

釈放時、フィデルが手を挙げて仲間たちと刑務所から出てくるところを捉えた写真。この背後に映るのが、プレシディオ・モデロ刑務所の玄関なのだが、同じ場所を初めて訪れた時の高揚が忘れられない。

プレシディオ・モデロ刑務所は1968年の閉鎖後整備され、現在は一般に公開されている。広大な敷地の中にパノプティコン型と呼ばれる円形の牢獄、食堂などが配置されていて、当時のままの様子が見学できる。大量の囚人たちが収容された円形牢獄ではなく、別の建物にあるフィデルが過ごした場所も入場でき、そこには様々な関連資料が展示されている。

フィデルは投獄中、自らが行なったモンカダ兵舎襲撃の意義について国民へ説明するための文書を綴った。その出版は政府の検閲によって阻まれたため、極秘に牢の外にいる協力者たちを使って印刷し全国各地で配布、水面下で革命へ向けた活動を続けていた。それが効を評してフィデルのおこなった行為を支持する人々が増加、国民の政府に対する不信感が高まり、政府側もフィデルらを釈放しないことにはバチスタ政権を存続が危ういとし、恩赦を実施せざるを得なかった。

そのほかにも、日本人にとっては触れずにはいられない歴史がここにはある。第2時世界大戦中、アメリカの傀儡政権であったキューバは日本を敵国とみなし、キューバに暮らす日系移民たちをプレシディオ・モデロ刑務所へ投獄したのだ。日系移民たちが投獄されていた棟は公開されていないが、博物館にはイスラ・デ・フベントゥに暮らしていた日系移民家族の写真などが展示されている。

確かにこうした歴史は重いのだけれど、それほど遠くない昔が生々しく感じられて妙な興奮を覚え、キューバで訪れた史跡の中で、間違いなく一番心を揺さぶられた場所だ。

現在のイスラ・デ・フベントゥは、キューバの州ではなく「特別行政区」に区分されている人口8万4千人ほどの島。観光客はそれほど多くないのだが、島の人たちが比較的頻繁に移動することもありハバナ間は航空便と船便がそれぞれ1日2往復ほど出ている。一般的な観光スポットは、プレシディオ・モデロ刑務所とヌエバ・ヘロナの街、近郊のビーチなどでハバナからの日帰りも可能だが、のんびり島気分を味わうために1泊したいところ。今でも多くの日系人の方が暮らしているので、その方たちを訪問することも可能。

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