私的懐古、キューバ音楽体験

初めてのキューバ体験はなんだったろう?と振り返ると、やっぱり音楽だったように思う。お気楽極楽なお一人様生活を満喫していた90年代、当時住んでいた京都は自分で動きさえすればありとあらゆる文化体験が可能で、その日の気分でいろんな刺激をチョイスして楽しんでいた。20代後半、体力も気力も頂点だったあの頃、常にいろんな方向にアンテナ張って引っかかってくるものを片っ端から試していた中で、キューバ音楽がヒットした。ラテン系の音楽がかかるカフェがお気に入りでよく行っていたのだが、そこでサルサといわれる音楽やダンス、そのルーツであるキューバ音楽に出逢った。仕事帰りの何もない日には映画館か本屋かCD屋に寄るのが日課で、その日もヴァージンレコード河原町店(懐かしい!)をのぞいてみたところ、エスカレーター前ワールドミュージックコーナーのオススメ商品として並んでいた1枚が目についた。

Los VanVan 1974

決してメジャーとは言えないキューバ音楽のCDがこんなにすぐに見つかると思っていなかったから、嬉しくて即買い。早速聞いてみたところ、タイトルにある通り1974年収録の作品らしいけど、全然古くなくてむしろ斬新、ねとっ〜とまとわりついてくる感じのメロディーが独特でリズムで押してくるラテン系の音楽っぽくもない、それまでに聞いてイメージしていたキューバ音楽とは違う・・・後になってすぐにわかったのだが、ロス・バン・バンは当時からキューバを代表する超有名バンドだった。最初に聞いたそのCDがバンド結成から5年ほどの彼らの初期の音源で、中でもちょっと毛色の違う楽曲ばかりの作品だったから「これがキューバ音楽?」と思ったのは確かだけれど、そのクオリティーの高さは素人が聴いても明らかで、ドカーンとすごい衝撃を受けたのが忘れられない。それ以降、音楽の嗜好はキューバへグッと傾いていった。しばらくしてからスペイン語を学び始め、これがまたハマった。そして京都にいながら「ラテン」をキーワードに生活するようになる。

ちょうどその頃、1990年代後半から2000年代初め、映画とアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の世界的な大ヒットをきっかけに、日本にもにわかキューバブームがやってきた。ブエナ・ビスタに出演していたミュージシャンやキューバのビックバンドが次々に来日して公演が行われ、それらを追っかけてあちこちに出かけた日々が懐かしい。

2005年ついにキューバを初めて訪れることになるのだが、その目的は「キューバ音楽」に他ならなかった。事前に調べてわかったのは、Casa de la Música(カサ・デ・ラ・ムシカ)というライブハウスがあってそこで毎晩サルサなどのライブが行われている、そのほかにもホテル付属のカフェやホールで週末などにライブがある、ジャズは専門のジャスバーで、とざっくりしたものだったので、とにかく現地に着いてから情報収集するしかなかった。と言ってもインフォメーションセンターがあるわけでも、情報雑誌があるわけでも、もちろんネットで検索できるわけもなく(当時ネット接続はほぼ不可能)・・・今だにそうだけれどキューバでこの手の情報を得るのは非常に難しく、直前にならないと確かなことはわからない。だから昼間開店前のライブハウスへ一度足を運んで当日の公演予定をチェックし、その日のマチネー(夕方6時ぐらいからの昼公演)か夜公演(9時開場、深夜0時開演)へ行く、という作戦に出た。そうしてお気に入りから、初めて聴くバンドまで、時には2箇所をハシゴしてライブ三昧。

そのほか宿泊先のカサでラジオを聴いて、各所でのライブ情報もチェックした。すると週末にレーニン公園でロス・バン・バンの屋外ライブがあるという情報をキャッチ!調べたところレーニン公園はハバナの郊外、空港近くにある大きな公園とわかったので、小雨が降る中タクシーで向かった。タクシーのドライバーに行き先を告げても「バン・バンのライブ?知らんなー本当にあるの?」と言われ不安になったが、とにかく行ってみないことにはわからないし気がすまない。公園へ到着したが、ライブの気配は全くない。結局、その場にいた人に聞いてライブが中止になったと知り、仕方なく同じタクシーに乗って街へ帰ったという苦い想い出もある。この時ハバナだけでなくサンティアゴ・デ・クーバへも足を伸ばしたのだが、雰囲気たっぷりのCasa de la Trova(トローバの家)でラムを飲みながら聴いたベテランミュージシャンの歌も良かったなあー。

とにかくジャンルを問わず、生のキューバ音楽を堪能した初めてのキューバ。その土地で、その土地の人たちと一緒に時間を共有しながら聴く音楽は本当に最高だった。

今、キューバに暮らすようになって、よく言われるような「キューバ人にとって音楽は生活の一部」的なことは実感するけれど、自分自身は以前のように貪るように音楽を聴くことがなくなってしまった。贅沢にも身近にいつでも聴ける環境にあるというのに。でもやっぱりキューバの音楽が好きで、サルサもソンもルンバもキューバンジャズもトローバも、サンテリアに関わるちょっと宗教色のある音楽も。コロナ渦中で、ライブはしばらく無理そうだから家で手元にあるできる限りの音源を聴いてみましょうかね。

地図で遊ぼう ー キューバで使える地図アプリ、maps.me

小学生の頃、休み時間によくやった遊びに「地図帳ごっこ」と呼ばれていた地図帳を使っての地名探しがある。地域限定、年代限定のものだと思うけれどかなり流行っていた(?)記憶があり、とても好きな遊びのひとつだった。遊び方は簡単。一人が地図の中にある地名を言って、それを地図中から探しあてるというもの。社会科の副教材の地図帳は、日本地図から世界各国まで縮尺も大小様々結構なボリュームがあるので、ほぼ無限に続けられた。

コロナ対策で家ごもりの日々、久しぶりに息子と一緒にこの地名探しをやっている。手頃な地図帳なるものがないので、部屋の壁に貼ったキューバの地図を使う。片方が地名を挙げ、もう片方が探す。全土から探すのは難しいので、地域や州をヒントとして出しながら正解へ導いていく。これを繰り返すだけだが、意外に盛り上がって楽しめる。

地理の勉強にもなる!

ところで最近は紙の地図は使わずに、パソコンや携帯上で地図を見たり確認したりすることがほとんどだと思う。海外旅行の際も「紙」データはほとんど持ち歩かない人も多い。ただキューバの場合、未だネット環境が整っていないので、ネットが繋がらなくでも必要なデータが見られるようにできるだけ準備しておいたほうが無難だ。

そこでオススメの地図アプリが、maps.me(マップス・ミー)。オフラインでも利用でき、キューバ各地の情報もかなり充実している。スマホにこのアプリをダウンロードして、キューバ部分を仕込んで現地に来てもらうと非常に便利。これさえあれば、町歩きの際にも迷子の心配なし。日常的にも行き先を検索して目的地までたどり着く、移動時間の目安を知る、新しいレストランの場所をマーキングしておく等々、活躍しまくっている。

maps.me おすすめ!

旅行に行けない今は、地図を見ながら旅行計画を立てる。地図があればかなり細かく行程が決められるし、なんなら食事の場所やお土産買う場所まで見つけられてしまう。ああ、なんて楽しい妄想さんぽ。でもあちこちチェックして、地図上のマーキングが増えるばかりでは寂しい。

早いところ現実旅行ができますように!

キューバでこいのぼり

日本から持ってきた鯉のぼりを今年も飾った。

キューバに来て5年、毎年欠かさず4月の後半から5月にかけて飾る。息子は今年10歳、半分は日本の、半分はキューバの空を泳いできた(日本はベランダ、キューバは室内なので空の下経験なしだけど)鯉のぼりたち、少し色が褪せて、吹流しは布がボロボロささくれだってきてしまった。それでも窓から風が入ってくると、ちょっとだけ横になびいてくれるのを見ると嬉しい。

あまり乗り気じゃない息子にお願いして、記念撮影もバッチリ

5月っぽいこちらの額も日本から。鯉のぼりと一緒に毎年登場

コロナの影響で「お家で過ごそう」状態が続く中、おりがみで鯉のぼりも作ろう!と息子を誘うも最初の千代紙を切るところまでやってどこかへ行ってしまったので、ひとり黙々と作品を完成させた。

完璧!

ヨレヨレの鯉のぼりを出しながら、息子がひとこと。

「今度日本へいったら、新しいの買わないとね。」

ん?鯉のぼりって、子供がいくつになるまで飾るのだろう?新しいのいる?!

キューバで知る 三船敏郎誕生100年

コロナ関連のニュースばかりが目につく中、新聞記事にSamuraiの文字を見つけた。タイトルにはLos cien años del samurái(サムライの100年)、何の記事だろうと読んでみると、4月1日が俳優三船敏郎の誕生100年だという。キューバでもよく知られた黒澤明監督と組んで多くの映画に出演し、作品を通してサムライ像を見事に表現したことを賞賛していた。

キューバ人は映画好きだ。男性に限らずお涙ちょうだいもののドラマや実話ベースのドキュメンタリーっぽいものよりも、アクションやアドベンチャーものの方が好まれる。キューバの直面する現実社会が何かと厳しくドラマチックなことが多いから、映画を見ているときぐらいは現実逃避できたほうがいじゃないか、だからアクションの方がいいよ、と誰かが話してくれたことがある。それはさておき年配の方だと「クロサワ作品は大好きだ」と言う人も多いし、日本映画として知られているのは『7人の侍』や『座頭市』だ。

グランマ誌のデジタル版では『7人の侍』の写真とともに記事が出ていた

残念ながら私は黒澤作品をちゃんと見たことないし、三船敏郎も晩年TVで対談番組などに出演しているのを見た記憶があるぐらいだ。ましてや誕生日は知らない・・・で、早速ネット検索してみるとWikipediaには読みきれないほどの記載があり、中には「チェ・ゲバラは『用心棒』に感銘を受け、桑畑三十郎の恰好までするほどのファンであった。(三好徹『チェ・ゲバラ伝』原書房)」なんていう記事まで。へええええ、だ。そして誕生日は確かに1920 年4月1日で今年がちょうど誕生100年、こんな形でしかもキューバで三船敏郎について多くを知ることになろうとは・・・!

ところでハバナには市民にもよく知られているサムライ像がある。ハバナ湾を挟んでカバーニャ要塞の向かい旧市街側にある「支倉常長像」だ。その名前までは知らずとも、それがキューバに初めて来た日本のサムライであることは、多くの人が知っている。

ハバナの支倉常長像。旧市街散策中に立ち寄ることも可能

でもキューバ人が描くサムライ像は、やはり黒澤作品に出てくる三船敏郎演じるサムライ何だろうなあ。

アーネスト・ヘミングウェイ国際カジキ釣り大会−Ernesto Hemingway Torneo Internacional de la pesca de la aguja

人生の後半の大部分の時間をキューバで過ごし、海と釣りとお酒が大好きでキューバを愛してやまなかった作家ヘミングウェイ。ハバナ市内には今でもヘミングウェイゆかりのホテルやバーがあり、観光名所として連日多くの人であふれている。生前ハバナ郊外に購入した屋敷は現在ヘミングウェイ博物館となって、作家が暮らした当時のままの様子を見学することができる。

ヘミングウェイ博物館には欧米からはじめ多くの観光客が訪れる。

ハバナから東へ車で15分ほどのところにある小さな町、コヒマルはヘミングウェイが釣りに出るための船を停めていたところ、いまでも毎日ここから漁師たちが船を出すのどかな漁村、『老人と海』の舞台を見に博物館とともに足を伸ばす人も多い。

現在のコヒマルの漁港。ハバナ近郊では最大の規模で、今も毎日多くの船がここから漁に出る。

そのヘミングウェイの名を持つマリーナが、コヒマルとはハバナを挟んで西、反対側の海岸にある。キューバでは最大規模の国際マリーナで、常に各国の船が停泊している。他のヘミングウェイ関連の名所に比べて普段観光客が訪れることは少ないが、1年に1度開催されるヘミングウェイ国際カジキ釣り大会は、世界各国の釣り好き達が集って賑やかなイベントだ。今年の大会は11カ国18チームが参加して6月10日から15日に行われた。69回目を迎えた歴史あるこの釣り大会に日本から初めての参加者があったのだが、なんとこちらのお客様のご招待で1日船に乗って参加することになった。

日本チームの船、ピラール1号。

これまでにもダイビングの時など1日船上で過ごす経験はあるものの、今回のような小さな船で「釣り」をしながらの船体験はない。カジキ釣りはもちろん船からの海釣り体験も初めて・・・大会前にトーナメントのルールを翻訳してその内容を知ったが、なにぶん釣り自体がほとんど未知の世界なので、よくわからない部分も多かった。釣りといえば釣り竿持って行うものだとばかり思っていたので、船に竿を固定して釣り糸とルアーを海中に流し、船を常に進めながらヒットするのを待つ、という釣りの方法があるなんて全く知らなかった。カジキ釣りは、カジキの特性を生かしたこのトローリングと呼ばれる方法で行われるのが一般的らしい。でも、これじゃあ釣り人の腕はどこで試されるんだ?

船に乗った当日。海は白波ひとつ立たない静かなもので、湖面を行くような穏やかさ。朝9時のスタート時に一斉に方々へ船が向かって行く様子は壮観だった。

競技スタートの合図とともに各船が一斉に沖に向かって進む。

しばらくは海から見えるハバナの景色を楽しんだり、真っ青な海の美しさにうっとりしたりしていたけれど、そのうち退屈してきた。釣りなんてそんなものだろうけど・・・午後には船長の横に座って、しばしおしゃべり。2階の操縦席で周辺をじーっと見回す船長は、漠然と針路を決めているわけではなく海の色、潮の流れ、海面に浮く海藻、鳥の群れといったものを観察しながら、魚のいる場所にあたりをつけて舵をとっていた。とすると、釣り人の腕ではなく船長の舵取りが一番の決め手なんじゃないか?

コヒマルからもう少し行ったあたりまで進めた後、Uターンして陸近くを並走するように航路をかえた。ハバナの街の中心が近い。こんな陸から近いところでカジキみたいな魚が釣れるのか?と思っていたその時、リールのひとつがザッーと音を立てて動き出した。その瞬間、船長、船員たちが素早く反応する。竿を外して釣り上げ担当の参加者に持たせ、定位置に座らせる。船長はまだ2階で舵を握ったまま。見習い中の若い船員を呼び、船長が魚を捕獲する瞬間に下へ降りた際の操縦の仕方を指示する。まだ獲物は船尾の先、釣り糸の先端に左右にもがきながら泳ぐ大きな姿が見えた。

船長と船員。10年来のコンビは息のあった様子でカジキを揚げる。ハバナが近い。

「ブルーマルリン(マカジキ)!」

水面近く少し飛び跳ねた瞬間に、その大きさがわかり驚く。

「1.5〜2mはあるぞ、でかい!」

まだ2階の操縦席にいる船長は、飛び跳ねて大喜び。

慣れない手つきで竿を持ち、必死でリールを巻く彼に冗談混じりでハッパをかける。

巨大なカジキを少しずつ寄せていく。ここを見るとやっぱり釣り。

もう直ぐそばに黒い影が近づいてきて、尖った口先の角が水面から顔を出し、全身で水面をバシャバシャと叩く。およそ30分弱。

船に近づいて暴れまくるカジキ。

「もう少し!」

と一瞬船の脇でその姿を見たか見ないかのうちに、口元のナイロンの糸が切れてサーっと水の中に消えてしまった。

「これでいいの?」と思ったが、そもそも釣り上げても写真記録だけとってキャッチアンドリリース、タグ付けも強制ではないので、規定通りに写真が撮れていればポイントとして加算される。一般の釣りに比べると物足りないような気もするが、競技としては合格の捕獲だった。

この日、日本チームはこの1匹のみ。でも18チーム中カジキをヒットして得点したのはわずか4チームで、暫定1位。その後、4日間の競技日程を終えて日本チームは2匹のマカジキ捕獲で第4位。初出場でしかも全員素人のチームで大健闘。全ては優秀な船長と船員のお陰とはいえ楽しい思いをさせてもらった。

それにしてもハバナの街並みをバックにマカジキとの格闘、想像以上に力強く、美しく、興奮。

 

ヘミングウェイ国際カジキ釣り大会。アメリカとの国交回復直後の2017年の大会は80チームほどの参加があり大盛況だったそうだが、今年は直前のアメリカ政府のキューバ対策(アメリカ人のキューバ渡航制限の強化)により、予定していたチームの不参加もあって数的には寂しいものだった。それでも3チームのアメリカからの参加、そのほか10数ヶ国の参加は国際交流という点でも意義のある大会といえる。ヨットクラブの支配人が「国と国の間に壁をつくるようなことをせずに、橋渡しとなるようなイベントに」と話してくれたのが印象的だった。高価な遊びではあるけど、ヘミングウェイの精神、キューバへ対する想いをつなぐこの大会、いろいろな意味で今後も途切れることなく続いたらいいな、と思う。

再び島へ・・・Isla de La Juventud (イスラ・デ・ラ・フベントゥ)

2018年夏、再びIsla de La Juventud「青年の島」へ行く機会があった。

早朝暗いうちにハバナを発ち、夜明けと共に島へ到着。前回ほどのワクワク感はないものの学校の教室ほどしかない小さな到着ロビーから外へ出た瞬間、ぐっと気持ちが高揚する。島へ来た。

10分ほど走るとすぐにNueva Gerona(ヌエバ・ヘロナ)の街の中へ。自動車よりも自転車が目立つ島の道路、

「田舎なのに人が目立つな。日本の過疎地じゃ道に人なんていないのに」

確かに。なぜならキューバ人はCalle(道)へ出る。Calleでおしゃべりし、Calleで仕事をする。田舎だけど、島だけど、ここもキューバだ。

 

島の観光の目玉はやはりPresidio Modelo(プレシディオ刑務所)。今回もここが最大の目的、それぞれの想いを胸に場内を見学する。廃墟となった刑務所、その建物の中に立つと当時の監守の悪行、拷問、刑務所内の厳しい規律、受刑者同士の争いといった話を聞かなくともクソ暑いのに背筋が少し寒くなるのを感じる。

フィデル・カストロも一時ここに収容されていた。第2次大戦中には日本人移民たちも・・・

早々にメインイベントを終えてしまったが、今回個人的に楽しみにしていたことがある。島に住む日系人、日系人関係者の方々との面会だ。

 

今年2018年は、日本人がキューバへ移民として渡って120年の記念の年であるため、数々の行事が島でもハバナでも行われている。私たちが訪れた前日にも「お盆」のイベントと市博物館で開催される特別展示のオープニングがあった。これらの行事に関わりお忙しい中、日系2世と結婚したキューバ人女性Nさんと島の日系人会会長を務める2世の男性Mさんにお会いすることができた。

 

Nさんは私たちを自宅に招待し、昼食まで振舞ってくださった。初対面とは思えない歓迎ぶり、キューバ式のおもてなしに日本人はちょっと戸惑ってしまうが、彼女自身も繰り返し言っていたように「日本人と楽しい時間を共有するのが何よりも嬉しい!」のだから、ここは遠慮なく長居する。それにしてもNさんの日本愛は半端ないのだが、その想いは彼女の住まいを見てもわかる。日本の団地を思わせるアパートの居間は、そこだけ切り取ればどう見ても懐かしき昭和の家庭の趣。

Nさん宅の居間。どう見ても日本のお宅。

そのNさんが見せてくれたお手製の日本地図には、これまで彼女の家を訪れた日本人訪問者各自の居住地に名前と住所、その他の情報が書き込まれていた。すでに2枚目の地図にも書くスペースがないほどで、移民120年を区切りに3枚目を作ろうかと検討中だとか。それにしても、この島にこれだけの日本人が来ているとは驚き。

今回残念ながら日系2世の旦那様は、娘さんへ会うため渡米中でお留守だった。しかしNさんはご自身で本も出しているほど島の日系人について誰よりも詳しく知っており、食事をいただきながら旦那様との出会いから、日系人の方々の生活ぶりまで色々な話をうかがった。ここはキューバ人、おしゃべりは止まらずあっという間に数時間が過ぎていた。

 

Nさんの案内で博物館へいき、開催中の日系移民120年に関する展示を見学した後、私はもう一人日系2世のMさんに会った。公園のベンチに腰掛け、2時間近く話を聞いた。

「私の日本語は下手ですから」とスペイン語だったが、言葉遣いも話し方も普通のキューバ人よりずっと穏やかで聞きやすかったのは、私が外国人だからそのように話してくれたのか、島の話し方なのかわからないがとにかくよく理解できた。彼の生い立ち、両親の思い出、息子の話、キューバ日系人社会のこれから・・・一通り話したあと、

「私ばかり話していますから、何か質問は?」

と聞かれ単刀直入に尋ねた。

「あなたはキューバ人ですか?日本人ですか?」

おそらく何度も聞かれている質問だろう。フッと笑いながら答えてくださった。

「キューバで生まれて育ったからキューバ人です。でもSangre(血)は日本人。」

特にお母様に日本人としての教育されたことが大きかったとおっしゃっていた。そのお母様は日本へ帰りたいと最後まで言い続け、叶うことなく逝ってしまったという。そのお母様の想いを胸に2014年に初めて日本へ行くことが叶ったそうだ。スマホに保存してあるその時の写真を見せながら、本当に嬉しそうに日本で過ごした時間について語ってくれた。

いつも思うのだが、外国人の語る日本は本当に素晴らしい国だ。

今回Mさんの語る日本はお母様から、他の日系人たちから受け継いだ気持ちがあまりに大きくてそれはそれは素敵な国に思えた。

話をするときMさんは決して「キューバの日系人は・・・」という言い方をしない。「キューバ人は」「キューバは」と言う。やはりこの方はキューバ人なんだと思った。そして最近のキューバ人がよく口にする

「この国ときたら」

と言いながら投げやりに現状を愚痴ることをしない。ご本人もおっしゃっていたように、何に対しても前向きな考え方を口にする方だ。ラテン人の楽観性ともちょっと違う、いい方向へ変わっていく努力をしよう、という姿勢が素敵だった。日本人的なひたむきな努力であるかもしれないし、キューバ人的な革命精神かもしれない。どちらにしても、さらりとそういったことを言えるのがカッコよかった。

 

もうすぐ陽が沈む頃、宿を目指しながら自転車をおすMさんと一緒に歩いた。のんびりゆっくり島時間。24時間の短い滞在の長く濃い1日が終わろうとしていた。