チチェン・イッツアの旅行情報

「チチェン・イッツァ(Chichén Itzá)」はメキシコのユカタン半島のジャングルの中にある美しいマヤ文明の遺跡をさします。
ユカタン半島のユカタン州州都メリダから、ジャングルの中を通る国道180号線を、東のカンクン方向へ約120kmほど内陸行った所に位置します。
1988年に世界遺産に登録されました。
その都市の巨大さから当時はこの地で大きな権力を持っていたことがわかります。

チチェン・イッツアについて

メキシコで一番有名な遺跡といえば、この「チチェン・イッツア」でしょう。
マヤ語でチチェンとは泉のほとり、イッツァとはイッツァ族のことであり水の魔術師を意味を示し、「セノーテ」と呼ばれるユカタン半島の地質特徴でもある地盤沈下によってできた大きな天然の泉を中心に発展していきました。
マヤ文明を代表する遺跡のひとつで、マヤの最高神ククルカン(羽毛のあるヘビの姿の神。ケツァルコアトルのマヤ語名)を祀るピラミッドがあります。
メキシコのユカタン半島北部の密林の中にあるこの都市は5世紀の半ばに築かれました。
しかし7世紀末に一度滅びてしまい、なぜ滅びてしまったのかも今もなお謎であります。

チチェン・イッツアの地図

その後、300年から400年の空白の時を超えて11世紀に再びマヤとトルテカの二大文明が融合して都市として復興し、13世紀頃まで栄えました。そのため遺跡は、トルテカ文明の影響を受ける以前の南側の地域を旧チチェン、それ以後の北側の地域を新チチェンと分けて呼ばれています。
二つの文化の顕著な違いは「新チェチェンイッツア」はトルテカ文化の影響で日常的な「生け贄文化」を持っていたということです。
その後反乱に巻き込まれ滅びていったというのが今現在の調査で分かっていることですが、謎が多すぎてこれも一つの仮説にしか過ぎないということです。
メキシコの観光パンフレットなどには必ずといっていいほどこのピラミッドが使用されています。

チチェン・イッツアへの行き方

カンクンから

乗り場:カンクン1等バスターミナル(SuperExpresso)
・運行時間:12:00 14:00
・所要時間:3時間
・乗り場:カンクン1等バスターミナル(Riviera)
・運行時間:9:00のみ
・所要時間:3時間

メリダから

乗り場:メリダ1等バスターミナル(ATO社)
・運行時間:AM6:30から
・所要時間:1時間30分
・乗り場:メリダ1等バスターミナル(TRP社)
・運行時間: 13:30のみ
・所要時間:2時間

チチェン・イッツアの主な見どころ

全てを網羅しようとするとかなりの時間と体力が必要になるほど内部は広く、年代によって「旧チチェンイッツァ」と「新チチェンイッツァ」に分かれます。

新チチェンの遺跡

ククルカンとはマヤ神話の至高神、創造神で、風とハリケーンの神とも言われ、メソ・アメリカの重要神の一人でした。
この神が祀られていたのがこの階段状のピラミッドです。基底55.3メートル四方、高さ24メートル(頂上の神殿部分は6メートル)あるとされています。
このピラミッドは大きな9段の階層からなり、4面に各91段の急な階段が配されていて、最上段には真四角な神殿があります。ピラミッドの階段は、天文学の研究が盛んだったマヤの技術の粋が集められていて、4面の91段を合計すると364段で、最上段の神殿の1段を足すと、丁度365段になります。また1面の階層9段は階段で分断されているので合計18段となり、これらはマヤ暦の1年(18ヶ月365日は月を表します)を表していることから「暦のピラミッド」とも呼ばれています。
北面の階段の最下段にククルカンの頭部の彫刻があります。
天文学と建築技術に秀でたマヤの人々は太陽の動きを正確に把握し、春分の日・秋分の日に太陽が沈む時、ピラミッドは真西から照らされ階段の西側にククルカンの胴体(蛇が身をくねらせた姿)が現れ、階段下のククルカンの頭と合体します。これはククルカンの降臨と呼ばれています。
ククルカンの頭の先にはセノーテ(泉)もあり、現れたククルカンはセノーテで水を飲むとも言われます。
また、さらに夏至と冬至には、ピラミッドの一面が太陽の光と影の部分に、ちょうど半々に分かれる現象も確認されています。ピラミッド内部には初期のトルテカ=マヤ方式のピラミッドが内蔵されており、この神殿にはジャガーをかたどった玉座や生贄の心臓を太陽へ捧げたチャクモール像が置かれています。
しかしこの像の目にはめこまれた翡翠は中国製である事が判明しており古代史の謎となっています。

3層の基壇を持つ神殿の周辺を、戦士の浮き彫りが施された石柱群が囲み「千本柱の神殿」とも呼ばれています。
柱は昔屋根がついていたといわれていますが何を意味して建てられたのか現在もわかっていません。
この神殿はマヤの人にとって大切な儀式が行われていた場所とされています。その儀式には生贄が使われ、その生贄を神に捧げるための祭壇がこの戦士の神殿です。
それを裏付けるために神殿の上部には羽根毛の蛇ククルカンの頭と胴(柱)チャックモールが置かれています。
チャックモールとは、人が仰向けの状態でひじをつくような姿勢で上半身を起こして、顔を90度横へ向け、両手で腹部の上に皿や鉢のような容器をかかえてひざを折り曲げている人物像のことをさします。
チャクモールは死んだ戦士を象徴し、神へ生贄などの供物を運ぶ存在と考えられていて、チャクモール像の上で人身御供の儀式がおこなわれたり、チャクモールのもつ皿の上に取り出された心臓が太陽への捧げ物として置かれたといわれています。
またこの神殿の見所は、マヤの雨神であるチャックのレリーフが壁面にはめ込まれていたり、そうかと思えば、ジャガーや鷲というトルテカ戦士団の象徴と言われる彫刻が施されていたりと、マヤとトルテカの融合が見られることです。

ジャガーの石像やマヤの死生観を表す彫刻が施されています。
ジャガーの石像の両脇にある柱の下部に、マヤの神チャクが描かれ、両目から流れる涙が川となり、その先に鳥や亀や魚が描かれています。
これらは天から降る雨の恩恵により、植物や動物が生まれ育つことを表現していると言われています。
これはマヤの死生観を表しているとも言われ、左右の柱のカメは、右のカメが生を、左のカメが死を表していると考えられています。因みに、カメはマヤの世界観では大地を司る神として描かれています。
この神殿が発見された当時、この神殿内には、添付画像の壁画が美しく描かれていました。この発見によりいままで伝えられてきたことが間違っていたのでは?と考古学的に大発見があった場所です。

聖なる泉と呼ばれていています。ユカタン半島北部には、地表を流れる河川がないため、地下水が湧き出すセノーテは彼らにとって水を供給する大切な場所、聖地でした。
このチチェン・イッツアのセノーテは直径60m、水深80mにもなります。
「聖なるセノーテ」からは、大量の人骨や装飾品・宝石・ヒスイなどが発見されました。この聖なるセノーテは雨の神チャックのすみかと信じられ、雨が降らない時や豊作を願う時に、神の予言を伺うために定期的に生け贄が捧げられていたそうです。
生け贄は子供から処女、男性にまで及び、生きたまま投げ込まれたといわれています。
このセノーテ米国調査隊が水をかき出して調査しようとしましたが、水が底からこんこんと湧き出し泉の底は現わさなかったといいます。
やはりここは聖なる泉なのでしょう。

古代マヤでは太陽の恵みを得られるよう生贄を差し出したと言われ、生贄になるのは名誉な事とされていました。
この球戯場でゲームを行い、その栄誉を与えられる人物を決めたと言われています。
この球戯場はマヤ遺跡最大の規模で、遺跡全体の大きさは南北168m東西68m高さ8.2mという広さを持ち、プレイフィールドは南北146m東西36mの大きさを持ちます。(アメフトのフィールドよりほんの少し小さいくらいの大きさです)
ゲームはサッカーとバスケットを足した様な競技で、生のゴムボールが使われ、手を使わずにリングの中にボールを入れたほうの勝ちで、1本勝負であったと考えられています。
有名な西側にあるレリーフには、この儀式によって勝者側(もしくは敗者側)のチームのリーダーが神への使者として斬首された様子が描かれています。
鮮血が生命と豊穣をあらわす象徴である蛇となっていること、更にその一つは木の幹となり作物を実られていることからも、この儀式が神聖なものであったことを伺わせています。
競技者は身分の高い高官であることは、そのレリーフに描かれた人物が、ネックレス(恐らくヒスイ)をし、権力の象徴であるマニキン・セプター(人物象形杓)を身につけていることからもうかがうことが出来ます。
当時のマヤ地域には鋳鉄などの技術がなかったため、首を切り落とす剣は黒曜石のものが使われたと考えられています。
アステカ語でドクロの壁と言われるツォンパントリです。
壁面全体にドクロが串刺しになった図柄や生首を手にした戦士が彫刻されています。
この台座の直ぐ東側に鷲とジャガーのレリーフが残る基壇が建てられています。
この基壇の壁面に描かれるレリーフには、鷲やジャガーが人間の心臓をわしづかみにし、食べている様子が描かれています。
これらの事柄から、この神殿にて生贄の儀式(特に球技の後に斬首する儀式)が行われ、切り落とされた首が、ツォンパントリに並べられたと考えられています。南北60m、東西12mのT字形をした建造物です。

旧チチェンの遺跡


後からきたスペイン人によってつけられた名前で実際は尼僧院ではありませんでした。
何のために建てられたかはまだわかっていません。
壁面全体に雨神チャックの装飾が施された建造物で壁面には13の雨神チャックが飾られており、入り口がその雨神チャックの口になっています。
13とはマヤの宗教の中では天上界の階層の数を表します。
それが何を意味しているのかは、まだ分かっていません。
建築物の入り口の一つにマヤ文字のテキストが彫られたレリーフがあり、未だ解読がされていないことから「謎の文」という意味の遺跡です。
旧チチェンの遺跡の中では最も古い建築物の一つと考えられており、遺跡内部の部屋には未だにかすかながら赤い手書きの壁画が残っています。

円筒形の建物で、数段の基壇とその上に建てられたドーム状の天文観測施設で高さは約13メートル、当時神官しか中に入ることが出来なかったほど重要性の高い建物でした。
内部にはらせん状の階段が上にのびており、その構造からカラコル(カタツムリ)と呼ばれています。
天文台の基壇は、真西から27.5度北に向いており、この方向は、金星が最も北に沈む方向と一致しています。
また天体観測のドームには観測用の3つの窓が残っていて、南向きには真南を向く窓、西南方向には、月没の最北線を向く窓、西向きには、春分・秋分の日没と月没の最北線を正確に確認できる窓が造られています。
太陽暦の1年をマヤ人は365.2420日と計算していました。
現代天文学がコンピュータで計算した1年は365.2422日で、天体望遠鏡もないマヤ人はほとんど誤差なく暦を知っていたことになります。
カタツムリ型の天文台から何代にもわたり肉眼で観測し高度な天文学知識を持っていたことがうかがえます。