青年の島へ、イスラ・デ・ラ・フベントゥ

2018-09-13T02:27:18+09:00

島に魅かれる。 日本もキューバも島国だけど、離れ小島となるとさらに魅力は増す。 キューバ本島についで第2の島、Isla de la Juventud(イスラ・デ・ラ・フベントゥ=青年の島) その名前にあるように少し前までは多くの留学生がここで医学を学び、またキューバ人の若者たちも農業体験などの活動をこの島で行っていた。 またかつてはIsla de Pinos(イスラ・デ・ピノス=松の島)と呼ばれていたように島内には松の木が多く育つ。キューバ革命時にはフィデル・カストロらが一時収容されていた刑務所があり、また日系人が多く暮らす島。行かなきゃ。 ハバナ空港から飛行機で35分、あっという間にIsla de la Juventudへ到着。空港を出ると待ち構える数人のタクシードライバーたち。乗客に外国人はほとんどいなかったので、声かけがこちらに集中する。事前にコンタクトを取っていたドライバーの車でNueva Gerona(ヌエバ・ヘロナ)へ。 久しぶりの見知らぬ土地へ初めて侵入するドキドキ感。やっぱよいわ。   Nueva Gerona(ヌエバ・ヘロナ) 街の中心はBoulevard(ブレバル)と呼ばれる遊歩道。かつて「キューバで一番ステキなBoulevard」という記事を読んだことがあるが、見てすぐに納得する。島では大理石が多く採掘されるというだけあってベンチも敷石もモニュメントも大理石でできており、ほどよく配置された緑との調和もいい。そして何よりゴミが落ちていない。すばらしい。 Presidio Modelo(プレシディオ・モデロ) 島一番の観光スポットは刑務所。1967年に閉鎖され、現在は記念館として公開されている。1953年サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵舎を襲撃し蜂起した罪で、20か月間フィデルはこの刑務所に囚われていた。入り口前面に延びるまっすぐな道、正面の建物階段。写真で見た拳を振り上げ仲間とともにその階段を降りる、釈放時のフィデル・カストロの姿を思い出す。また第2次世界大戦時、当時アメリカ合衆国よりの政権だったキューバは日本に宣戦布告、キューバで暮らしていた日本人はここに強制収容された。 建物群はパノプティコン型と呼ばれ、円形収容施設が4棟とその中心に同じく円形の食堂が並ぶ。このほか周辺にいくつかの建物があり、その一つかつてフィデルたちが囚われていた建物が資料館となっている。刑務所の歴史を示す資料、実際にフィデルたちが使っていたベッド、そして収容されていた日系人たちの所持品や写真。100年に満たない近い歴史、重すぎる。このほか円形収容施設1棟と食堂も公開されており見学することができる。すでに閉鎖されているし、自分が収容されたわけではないけれど、生まれて初めての刑務所体験。妙な高揚。   Playa Paraíso(プラジャ・パライソ) 天国のビーチ。この手のネーミングはどこにでもあるけれど天国には程遠かったりする。島のこのビーチ、規模は小さいけれど真っ白な砂浜、ココナッツが実るヤシの木、沖に小さな島と背後に小高い丘。何よりこの空間をしばし独占できるのがいい。やっぱ天国かも。             島の食事 特に島名物の料理にありつくことはなかったけれど、島だけに魚介類は新鮮で美味しい。そして何より安い。ハバナではシーフードの方が肉より高価だけれど、ここでは同じような値段でたっぷり楽しめる。   日系人社会 キューバへの日本人の移住が始まったのは1898年、今年でちょうど120年。現在日系人の数はキューバ全土で1300人ほど。他の各都市にも日系の方は住んでいるが、その多くはIslaに暮らす。決して肥沃とはいえない土地でスイカなどの農作物を作り生計を立ててきた。彼らが暮らすコミュニティ訪問、今回はかなわなかった。次回はきっと。 Isla de la Juventudは島だ。空気が島だった。なんだろう、島特有の空気。かつてどこかで・・・沖縄の離島もこんな感じだった。海の見えない内陸部分にいても、島にいることを感じる。 キューバという島にいながら、さらに島を感じに。オススメ。 *島の中心、ハバナからの飛行機、船の発着するNueva Geronaには観光客が利用できるカサも多くあり、こちらに滞在して島内散策の拠点とする事ができる。他のキューバの都市と同じく観光業に力を入れたいところだが、まだ十分な受け入れ態勢ができていないといえるかもしれない。しかし最近ではクルーズ船も入港するようになり、手付かずの豊かな自然を目玉に今後観光客も増えると思われる。